木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2025/10/6

地域シリーズ :廃都後の長岡京と『長岡天満宮』

長岡京は僅か10年で廃都されましたが、その後どうなったのでしょう。これまでに宮城と京域を合わせて1600回を超える調査が行われているといいますが、そこからは長岡京の姿がどのように描かれるのでしょう。また、廃都理由として怨霊説が有名ですが、その痕跡はあるのでしょうか。長岡宮を巡り歩くといろいろ疑問がわいてきます。そこで今度は、長岡天満宮周辺から長岡京域を歩き、在りし日の長岡京を想像してみましょう。

《ご案内》

長岡京は、現在の向日市域に大内裏が置かれ、長岡京市域には東西二つの市があった。淀川では、都の西南にあたる大山崎町付近に山崎津、東方に淀津などの水陸運の要所が展開された。しかし遷都から10年後の794(延暦13)年、長岡京は廃都された。その背景には、藤原種継暗殺事件や東北地方支配政策のゆきづまり、たびたびの豪雨水害や伝染病の流行などがあったが、廃都理由としてよく説かれるのが怨霊説。ことのはじまりは、遷都を進言し推進者であった藤原種継が遷都翌年に暗殺される事件が起き、背後にいたとされた大伴家持の関係者として皇太弟の早良親王に嫌疑がかけられたこと。親王は乙訓寺に幽閉され、絶食して無実を訴えたまま淡路に流される途中で船中死してしまい、それ以後、桓武夫人・生母・皇后が相次いで亡くなり、皇太子安殿親王も重病となるなど、これら一連のことが早良親王の祟りによるというもの。加えて792(延暦11)年に長岡京で起こった二度の大洪水も祟りによるとされ、平安京に再遷都したとするものだ。

これまでの長岡京発掘調査では、京域縁辺部ほど長岡京遺構の分布が希薄で、道路側溝が不自然に途切れ工事途中で止めたと考えられるところがあり、実際の造営範囲は全体の6割強ほどしか達成されていないことがわかってきた。また京域北側では従来にない新基準で宅地割りが行われるなど、造営途中で都市計画が変更された状況が確認できるという。このため考古学的には、造営が中断して整備が遅れ、都市計画の大幅な変更によって本格的な都城の造営が破たんしてしまったと考えられている。

廃都後は、多くの建物が平安京へ移され、長岡旧京の条坊も次第に廃絶していくが、条坊街区を一部利用しながら藍圃や蓮池など、土地の班給が行われた。こうして旧京の条坊全体に条里地割が再施行され、農地化が進み、公家や社寺が荘園として管理するようになっていった。

JR長岡京駅を西に行くと長岡天満宮が鎮座する。長岡京の条坊制でいえば右京五条三坊あたりだ。菅原道真が太宰府へ左遷されるとき名残を惜しんで木像を贈り、それを祀ったのが始まりとされる長岡天満宮は、創立時期は不明だが、応仁の乱の兵火で社殿が消失し1498(明応7)年に再建したとの記録が残る。1601(慶長6)年に周辺が八条宮家領となると、桂離宮を造営した八条宮智忠親王によって「八条ヶ池」が築造され、西山連峰を借景とした庭園として美しい景観がつくられた。1690(元禄3)年には本殿等の造替が行われた。

興味深いのは、現在の本殿が1941(昭和16)年に平安神宮旧本殿の譲渡を受け建築されたことだ。平安神宮は、平安建都千百年を記念し1895(明治28)年に創建されたもの。創建時の主な建物は、平安宮朝堂院を模して計画された大極殿・東西歩廊・蒼龍楼・白虎楼・應天門と、その背後に桓武天皇を祀る社殿として設けられた本殿・祝詞舎・透塀・後門であり、伊東忠太らの設計。このうち社殿は、1938(昭和13)年の孝明天皇合祀による新本殿建築に伴い解体されることとなり、長岡天満宮は平安神宮にそれらの無償譲渡を請願し、承認されたのである。直ちに社殿を解体し、旧本殿の背後を整地して新本殿を建設した。三間社流造、檜皮葺の本殿は、平安神宮創建当初の本殿の姿をよく保ち、当初材が再用されていることも確認できることから、京都府有形文化財に指定されている。

長岡天満宮から北に約1.5キロ行くと早良親王が幽閉された乙訓寺がある。長岡京の条坊制でいえば右京三条二坊あたり。同寺は、推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したと伝えられる古刹で、長岡京遷都のとき大増築されたという。戦国時代には戦火を受け一時衰退したが、1695(元禄8)年、五代将軍綱吉の護持僧であった隆光が、綱吉とその母桂昌院らの援助を得て再興し、大師堂(本堂)や八幡社が現存している。

乙訓寺を東に行くと長岡第七小学校北側にまとまった農地があり、そこから北を眺めると向日丘陵の南端がはっきりと見える。ここには向日神社があり、長岡京最初の内裏「西宮」がこのあたりに置かれたわけだ。こうしてみると、長岡宮は京域からよく見える位置に造営されており、平地に造営された平安京とは違った様相を呈している。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(出典1)「長岡京跡の条坊」(公財)長岡京市埋蔵文化財センター公式サイト

 

 

 

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2025/8/4

地域シリーズ : 『天王山』界隈

前々回のレポートで男山に登り三川合流域を眺めましたので、今度は対岸の天王山に登り淀川を見下ろすことにしました。天王山は「天下分け目の大決戦」で有名ですが、実際の合戦は天王山東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであったといいます。とはいえ山頂には、勝利した秀吉が築いた山崎城の跡が残っていますし、山腹には立地を活かした瓦窯の跡も残っていますので、天王山界隈を巡りましょう。

《ご案内》

標高270.4メートルの天王山は男山より127.9メートル高い。京都盆地西側の西山山系南端に位置する天王山は、断層崖によって限られた山だ。大阪平野の北にある北摂山地が東に押され、その山地の東端にある天王山の南麓に天王山断層ができ、東麓に金ケ原断層ができた。淀川を越えた南にも断層が丘を囲むように走り、男山は断層崖の上にできた小山である。淀川はこれら断層崖の間をぬって、京都から大阪へ流れる。

天王山へは、JR山崎駅、阪急大山崎駅から山頂まで徒歩約60分のコース。この山道を大山崎町は「秀吉の道」と名づけ、秀吉の天下取りを解説する陶板絵図を6箇所設置している。山上には、1582 (天正10) 年の山崎合戦直後に羽柴(のちの豊臣)秀吉が築いた山崎城の跡があり、付近一帯には天守台跡、門跡、井戸跡、土塁跡、礎石等が残されている。八合目付近には、山崎合戦の時、秀吉が味方の士気を高めるため老松の樹上高く千成瓢箪の旗印を掲げたといわれる「旗立松」が茂っている。松は7代目だ。ここには展望台も整備され、淀川流域や対岸の男山が見渡せる。

山上東側には、大山崎地域の産土神である酒解神社(さかとけじんじゃ)が鎮座する。江戸時代以前は天神八王子社と呼ばれ牛頭天王を祭神としており、天王山の名は牛頭天王の天王から由来しているという。酒解神社本殿は1820(文政3)年建築の国登録文化財。本殿横の神輿庫は鎌倉後期に板倉形式で建築されたもので重要文化財に指定されている。

天王山を降りると、登山口を出た東斜面に史跡が現われる。大山崎瓦窯跡だ。窯跡は史跡指定地に10基、北側の桜の広場公園に2基の計12基が確認されており、8世紀末から9世紀前半にかけて平安京造営に必要な瓦を生産した遺跡である。

平安京に瓦を供給した瓦窯は、大山崎瓦窯のほか、西賀茂瓦窯群、栗栖野瓦窯、吉志部瓦窯が知られており、これらは窯の構築方法や軒瓦製作に用いる型(瓦笵(がはん))を共有し、技術の交流がうかがえるという。また大山崎瓦窯と吉志部瓦窯は、淀川流域に位置し両者の近くには山崎津、江口という拠点的な港があることから、瓦の運搬に水運を利用したことが推測され、窯場選定に港の存在が重要な条件だったようだ。

平安時代に瓦を使う建物は、宮殿・役所・寺院にほぼ限られており、大山崎瓦窯では丸瓦・平瓦のほか、軒先を飾る軒丸瓦・軒平瓦、棟に使う熨斗(のし)瓦・鬼瓦が生産されていた。川から吹き上げる風を使って窯を勢いよく焚き上げ、出来上った瓦を素早く川に降ろし、山崎津から平安京に向けて何艘もの舟が淀川を遡上していったのだろう。これも一つの平安京造営の姿である。

JR京都線の長い踏切を渡って山崎駅に行くと、西側に離宮八幡宮がある。西国街道に面して境内を構えるこの八幡宮は、859(貞観元)年、清和天皇の命により、大安寺の僧・行教が宇佐八幡神を勧請したのが始まりとされる。離宮とつくのは、この地に嵯峨天皇の離宮(河陽宮)があったからだ。

平安末期に当地で荏胡麻油生産が始まり、中世には商業組織の「座」の中でも最大の「油座」の本拠地がおかれた。江戸時代までこの地が油座の中心として栄えたことから、離宮八幡宮は油の神様として今も親しまれている。

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2025/7/7

地域シリーズ : 藤森神社『駈馬神事』と深草

55日こどもの日には全国各地で馬の神事が行われます。京都市伏見区の藤森神社では、この日に藤森祭が行われ、境内で「駈馬(かけうま)神事」が行われます。約180メートルの参道を一気に駆け抜け、馬上で様々な技が繰り出されるのです。近年、動物を伴った行事が動物虐待と指摘される事例が見受けられますが、藤森神社では伝統と動物愛護の両立を目指した取り組みも見られました。この機会に藤森神社のある深草地域の歴史も巡りましょう。

《ご案内》

端午の節句(55)に藤森神社で営まれる「駈馬神事」は、早馬ではなく、疾走する馬上で曲芸的な技を人馬一体となって繰り出されるものだ。中学生から60代の騎手(乗子)が約180メートルの参道を駆け抜け、あおむけになり矢に当たったと見せかける「藤下がり」や、馬上で墨と筆を用いて字を書き後方に伝える「一字書き」など、難しい大技を決めると大きな歓声が上がった。

この神事は781(天応元)年、早良親王が陸奥への出陣を前に藤森神社で祈願した際の擬勢を象ったものとされ、江戸時代には警固の武士や各藩の馬術指南役、町衆らが技を競いあったという。明治以降は藤森神社の氏子に引き継がれ駈馬神事として行われている。

今年の神事では伝統と動物愛護の両立を目指し、1頭当たりの疾走回数を5回に制限し、3頭の馬が計15回疾走して観客を魅了した。

藤森神社は、約1800年前に神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社で、近郊にあった三つの社が合祀され現在の藤森神社となった。社伝によると、神功皇后が朝鮮半島出兵後、凱旋帰国して使用した旗と兵具を納めたのが起こりとされ、その時納めた旗の塚(旗塚)が本殿東側にある。同社は菖蒲の節句(端午の節句)発祥の神社としても知られ、今日では勝運と馬の神様として競馬関係者や競馬ファンの参拝者でにぎわう。

本殿は1712(正徳2)年に中御門天皇より下賜された御所の賢所(内侍所)で、現存する賢所では最古のもの。1438(永享10)年に足利義教が造営したとされる境内社の八幡宮本殿と大将軍社社殿は国の重要文化財だ。

藤森神社周辺は、明治後期以降、軍都としての性格を帯びてくる。同社境内には京都歩兵聯隊跡の石碑が立ち、1896(明治29)年新設された第4師団(大阪)歩兵第38連隊が駐屯したこと、1904(37)年に深草に司令部をおく第16師団が新設され第38連隊はその配下になったことなどが記されている。

藤森神社の東側にある京都教育大学教育資料館「まなびの森ミュージアム」は、旧陸軍第19旅団司令部を改装したものだ。1897(明治30)年に第19旅団司令部、京都連隊区司令部、歩兵第38連隊がおかれ、1908(41)年にはこれらを統括する第16師団もやってきて、のどかだった深草の地は軍事的な要地へとかわっていった。日中戦争が本格化するなか、第16師団は上海・南京へと転戦、第19旅団は歩兵団となってフィリピンへ移動、その後おかれた第53歩兵団もビルマ(現ミャンマー)へ出征してしまい、1945(昭和20)年に終戦をむかえた。戦後アメリカ軍の藤森キャンプとなったが、57(32)年に京都教育大学の前身の京都学芸大学がこの地に移り、学長室や職員会館としてこの建物が使われ、今は教育資料館となっている。

藤森神社の西には琵琶湖疏水鴨川運河が流れる。鴨川運河は、琵琶湖疏水のうち左京区冷泉通の鴨川合流点から鴨川東岸を南に下り、伏見区堀詰町までの全長約9キロの運河だ。大津-鴨川合流点間の疏水工事が1890(明治23)年に完成した2年後、鴨川運河の工事が始まり1894(27)年に完成した。墨染にはインクラインが設けられ、この運河の完成によって大津から大阪までの舟運が可能になった。藤森神社北側を西に行くと1925(大正14)年竣工の藤ノ森橋が架かり、その北には七瀬川が立体交差する「七瀬川くぐり」、南にはインクライン跡が見られるなど、鴨川運河には特徴ある橋や運河施設が群をなしている。

江戸時代には伏見から京や大津に向かう街道沿いのまちであった藤森神社周辺は、明治以降まちの様相が大きく変わっていった。京都駅から稲荷山を迂回し大岩街道沿いに山科へ向かう当初の東海道本線が1880(明治13)年に開業し、94(27)年には鴨川運河が完成した。1908(41)年になると深草地域に第16師団が移転し、10(43)年に鴨川運河の横を走る京阪本線が開業して、軍都としての色合いが強まっていく。戦後、軍用地は一時米軍キャンプ地となるが、その後学校や病院等に活用され、今では3つの大学を有する学都の色彩も加わってきたのである。

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京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2025/6/2

地域シリーズ : 『石清水八幡宮』と男山周辺

桂川、宇治川、木津川は男山と天王山に挟まれて三川が合流し、淀川となって大阪湾に流れて行きます。二つの山の間隔は山頂部で2.9キロ、山ぎわを走る京阪本線とJR京都線との間は約1.16キロです。この狭窄した空間に鉄道4本と主要道路2本が走っています。江戸時代には左岸に京街道、右岸に西国街道が通り、淀川では舟が運航していたので交通の要衝でしたが、男山に鎮座する石清水八幡宮は、淀川の方でなく山の東側にあります。そこで男山周辺を巡ってみましょう。

《ご案内》

桂川、宇治川、木津川の三川合流地に位置する男山は、木津川を北に押し上げ、その北東に昭和初期まで存在した広大な巨椋池を形作った。山上には石清水八幡宮(明治の頃には「男山八幡宮」と称した。)が鎮座し、京都盆地を見下ろすことができる。

石清水八幡宮の創始は、859(貞観元)年、僧行教が宇佐八幡宮で受けた神託に従い、山城国男山山頂に八幡大菩薩を勧請したものとされる。現在の境内は、本社社殿群のある山上の上院、北麓の頓宮を中心とした下院、西方の飛地境内に鎮座する摂社狩尾社からなる。創建当初より神仏習合の八幡宮寺を構成していたとみられ、公家や武家をはじめ、広く崇敬を集めた。社殿はたびたび焼失したがその都度復興し、近世初頭には1580(天正8)年の織田信長による社殿修復に続き、98(慶長3)年から豊臣秀頼による境内再興が行われたという。現在の本社社殿群は1634(寛永11)年に江戸幕府により造替されたものだ。本殿は、桁行12間の内殿と外殿を前後に並べて複合させた大規模な八幡造で、同形式の本殿の中では現存最古で最大規模であり、2016(平成28)年に国宝に指定された。

男山山上の本殿までは参道ケーブルが便利だ。高低差82メートルを所要時間3分で山上まで運んでくれる。このケーブルは、1926(大正15)年に男山索道によって開業したが、戦時中に廃止され、戦後の55(昭和30)年に京阪直営で復活したもので、路線距離0.4キロと僅かな距離だが貴重な路線だ。

石清水八幡宮は淀川に面する男山の北側や西側ではなく、東側に位置する。東側は木津川の扇状地で水はけがよく、農耕に適しており、創建された平安時代の初め頃には奈良街道が通る東方に開けていたのだろう。男山東麓には石清水八幡宮から高野山に向けて東高野街道も延びている。

三川合流地から木津川左岸を遡上すると、まず京阪本線のトラス橋が目に飛び込んでくる。広い河原に架かるトラス橋をガタゴトと走る京阪電車が軽快だ。河川沿いのサイクリングロードを先に進むと、京阪間の大動脈となる国道1号の木津川大橋と第二京阪道路の新木津川大橋が見えてくる。橋をくぐってしばらく行くと今度は華奢な木橋が現われる。欄干がなく橋桁がやたら多い上津屋橋である。

背割堤の御幸橋から約5キロ上流にあるこの橋は、橋長356.5メートル、幅3.3メートルの人道橋で、日本有数の木造橋だ。川が増水すると床板や橋桁が流れる構造となっていて「流れ橋」と呼ばれる。この場所にはかつて渡し舟があったが、1951(昭和26)年に渡しが廃止され、この橋が架けられた。明治中期の地図には、御幸橋から上津屋橋あたりにかけて、河川敷に船マークが幾つも記してあり、渡し舟は1箇所ではなかったようだ。

これほど長い木橋はめずらしく、テレビや映画のロケ地としても利用されている。また、最高級緑茶「玉露」の茶葉の栽培には砂地が向いていることから、流れ橋周辺の「上津屋」や久御山町「浜台」には、浜茶(はまちゃ)として良質な茶園が広がっており、茶畑の風情ある風景が「流れ橋と両岸上津屋・浜台の浜茶」として日本遺産「日本茶800年の歴史散歩」に認定されている。

桂川、宇治川、木津川が合流する三川合流域は、自然地形や歴史的経緯、人々の営みが積み重なり、様々な景観に巡り会うことができて奥深い。

《フォト》