京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2025/1/6 |
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地域シリーズ : 『おかめ節分』と西陣千本 新しい年を迎えましたので、2025(令和7)年の二十四節気(※1)を見ておきましょう。今年は、太陽黄経が0°の春分が3月20日、180°の秋分が9月23日となります。冬が極まり春の気配が立ち始める立春は2月3日ですので、その前日に当たる節分が、今年は2月2日です。そこで、昨年の『おかめ節分』を見ておきましょう。場所は千本釈迦堂(大報恩寺)です。あわせて千本ゑんま堂(引接寺(いんじょうじ))にも立ち寄り、西陣千本界隈を巡り歩きましょう。 |
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《ご案内》 2月の節分に千本釈迦堂(大報恩寺)で行われる節分会は「おかめ」が主役だ。正式名称が「おかめ福節分会」。『おかめ節分』とよばれるこの行事は、花街・上七軒の舞妓による舞踊の後、番匠保存会が奉納する木遣音頭から始まる。次に、おかめ像の前で法楽が行われ、本堂に戻って節分厄除祈願法要と年男の厄除祈願が行われる。そして茂山千五郎社中による古式・鬼追いの儀が奉納される。ここではおかめの福徳により赤鬼と青鬼を改心させる場面が演じられる。これら一連の行事を終え、いよいよ「招福豆まき」。僧侶や出演した社中、舞妓、番匠保存会の方々をはじめ、政財界や信徒の名士による年男の皆さんが加わり、「鬼は外、福は内」の掛け声で、本堂から大勢の観客に向かって豆が一斉にまかれた。 千本釈迦堂では「おかめ伝説」が語りつがれている。おかめは、鎌倉時代に西洞院一条あたりで住んでいた大工棟梁・長井高次の妻、阿亀である。千本釈迦堂の本堂造営にあたり、高次が総棟梁に選ばれ工事は着々と進んでいたが、四天柱の一本を誤って短く切り落とし落胆した夫の姿を見た阿亀が、「いっそ斗拱をほどこせば」と助言した。結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みができ上ったが、女の入れ知恵が世間に洩れては夫の名声に傷がつくと、阿亀は1227(安貞元)年12月26日の上棟式を待たずに自刃して果てた。高次は上棟の日亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれる。 この話を聞いた人々は、阿亀の菩提を弔うため境内に宝篋印塔を建立し「おかめ塚」と呼んだ。そして節分会での木遣音頭の奉納は、このようなおかめ信仰から行われているものであり、上棟式で飾られる「おかめ御幣」はここからきている。 大報恩寺(千本釈迦堂)は、1221(承久3)年義空(ぎくう)が小堂を建て仏像を安置したのが起りといわれる。1227 (安貞元)年に本堂が建立され、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として広大な伽藍を誇った。応仁の乱により堂塔は焼失したが、本堂のみが奇跡的に残り、洛中に残存する最古の仏堂として国宝に指定されている。この本堂は桁行5間、梁間6間の入母屋造・檜皮葺で、鎌倉時代の和様を代表する仏堂である。民衆が本堂内で釈迦念仏を唱える道場として外陣を広くとり、蔀戸や引違格子戸を用いるなど住宅風の趣だ。 堂内には行快作の本尊釈迦如来坐像を安置し、霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。 千本釈迦堂から北400メートルのところに千本ゑんま堂がある。正式名称は「引接寺」。ここでは節分の日にこんにゃく煮きが振る舞われ、だるまが授与される。寺伝によると、ゑんま堂は小野篁(802~853)が蓮台野の入口であるこの地に、閻魔法王の姿を刻んで祠を建て祀ったのが始まりという。引接寺は1017(寛仁元)年に恵心僧都源信の門弟・定覚が「諸人化導引接仏道」(人々を仏の道に導く)の道場として開山したもの。本尊は閻魔法王。応仁の乱で当初のものは焼失したが、1488(長享2)年に仏師定勢が再現し安置された。境内には紫式部供養塔と伝わる高さ6メートルの石造十重塔があり、重文に指定されている。 同寺では5月の連休に「千本ゑんま堂大念仏狂言」が行われる。京都三大念仏狂言(※2)のひとつで、「カン・デンデン」の鰐口(わにぐち)・太鼓・笛で囃すことは他と同じだが、ほとんどの演目にセリフのあることが大きな特徴。千秋楽最後の演目「千人切」の後、厄除けとして観衆が錫杖(しゃくじょう)で首をなでてもらうなど、庶民信仰と深く結びついている。 千本ゑんま堂狂言は、講中と呼ばれる西陣の男性により古くから継承されてきたが、1964年に後継者不足などで中断。10年後には不審火で狂言舞台と衣装を消失したが、狂言面だけは消失を免れたことがきっかけとなり、翌75年に保存会が結成され、ゑんま堂狂言が復活した。現在は入会を募集し、会員数は30名を超えている。 ちなみに「千本」の地名は、蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りに何本もあったことからその名が残ったといわれている。 |
《フォト》
(※1)二十四節気は、太陽の黄道上の動きにより1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けて節気と中気を交互に配しているもの。 (※2)京都三大念仏狂言は、千本ゑんま堂大念仏狂言のほか、清凉寺(嵯峨釈迦堂)の嵯峨大念仏狂言、壬生寺の壬生大念仏狂言。
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2024/12/16 |
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地域シリーズ : 『淀津』を探し、淀界隈を歩く 京阪淀駅を南西に行くと淀城の石垣が今も残っています。この城跡に與杼(よど)神社が鎮座し、秋には「淀祭」が行われます。同社は明治時代になって旧淀城内に移転したのですが、それまでは桂川右岸の河原にありました。桂川右岸引堤ため移転したのですが、かつてそのあたりは『淀津』と呼ばれ、淀川水運の一大拠点だったといいます。しかし場所は未定でしたが、2021年からその推定地で発掘調査が始まりましたので、その発掘現場と淀界隈を巡ってみましょう。 |
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《ご案内》 平安京の玄関口として栄えた港『淀津』の推定地で発掘調査が始まった。調査地は淀駅を西に行った宮前橋西詰(桂川右岸)の河川敷。長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡に該当し、平安時代の歴史書「日本後紀」には、桓武天皇が淀津へ行幸したという記録が残っている。 『淀津』は古代から中世にかけて平安京に運ばれる物資が荷揚げされる淀川水運の一大拠点であった。安土桃山時代に伏見港が整備され、淀の荷揚げ港としての機能は衰退したが、水垂や納所には水運業に携わる人々が多く生活していた。1623(元和9)年伏見城を廃城して淀城の築城が始まり、水垂は城外町として整備され、桂川沿いには町家や與杼神社が建ち並ぶ様子が絵図に描かれている。 発掘調査は2021年から始まり、弥生から明治時代までの遺構や遺物が断絶することなく見つかった。各時代の遺構から土器や須恵器の壷、平安後期の瓦などが出土し、室町から安土桃山時代の鉄精錬炉や滓を廃棄した土坑が見つかった。江戸から明治時代にかけての護岸や川に向かって突出する水制(※)も多数見つかり、護岸に土木資材として再利用された川船が6艘見つかっている。 これらの成果から、①『淀津』については、平安後期の瓦が出土した井戸、室町時代の大規模な堀、鉄精錬炉の存在や多種多様な遺物の出土などから、その一画であった可能性が高いとし、②調査地は弥生から明治時代まで人々の営みが続き、弥生から古墳時代に作られた各地の土器が運び込まれていることから、二千年以上前から遠隔地と交流があったこと、③江戸時代以降の桂川護岸の変遷と構造が明らかになり、再利用されていた川船は船底から舷側までの船体構造が残る全国でも初めての出土資料だという。ここでの発掘調査は今後も続けられる。 明治以降の淀地域は、陸上交通網が整備され淀川水運の重要性は著しく低下し、加えて1896(明治29)年から始まる桂川・宇治川の流路変更や拡幅・堤防修築事業により川と集落との結びつきが切り離され、淀周辺の港湾機能がほぼ失われた。桂川右岸では、河川改修により水垂・大下津町の集落が二度に亘って移転を余儀なくされた。最初は明治の桂川改修事業で、水垂村と大下津村が西に移転し、桂川右岸が西に引堤された。このとき與杼神社が旧淀城内の現在地へ遷座している。淀地域では、京阪淀駅が1910(明治43)年に開業し、京都競馬場が25(大正14)年に淀に移転してきた。二度目は近年の桂川引堤事業によるもので、水垂町と大下津町の集落が2006(平成18)年に再度西に移転し、桂川右岸の整備が進められている。 旧淀城内に遷座した與杼神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土神として鎮座している。社殿は1607(慶長12)年に豊臣秀頼が再建したもので、桂川右岸の引堤で1900(明治33)年に現在地に移築された。本殿は五間社流造の比較的規模の大きなもので、両端に納殿を付設した特異な形式であった。拝殿は旧舞殿で簡素な意匠であるが、本殿とともに桃山時代の特徴をよく示しており、近世社殿形式の一典型として71(昭和46)年に国の重要文化財に指定された。しかし本殿は75(同50)年に全焼し、5年後に現在の本殿が完成している。 與杼神社では10月30日から5日間「淀祭」と呼ばれる秋季大祭が行われる。11月3日の神輿渡御は、同社の旧淀城内移転後に、水垂の旧神社跡に向けて三基の神輿が担がれたとされている。3日は朝から西社・中社・東社の神輿が氏子地域を巡幸し、午後には三基の御輿が旧京阪国道納所交差点に集結して「辻回し」が行われ、沿道の人々を魅了する。 1925年に淀に移転してきた京都競馬場は、来年100周年を迎える記念事業の一環として2020年から大規模改修工事が始まり、昨年4月にグランドオープンとなった。約2年半の歳月と総工費880億円を投じ、メインスタンドの新築、パドックや馬場の改修が行われ、旧パドック跡は人工芝を敷いた憩いの場に変身するなど、競馬ファンだけでなく女性や子供も楽しめる空間となった。 余談だが、秋晴れの下で行われた今年の秋華賞レースは、1番人気のチェルヴィニアが期待に応えて差し切り勝ちを収め、少しばかりの払戻を受けた。 |
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(※)水制:川を流れる水の作用(浸食作用)などから河岸や堤防を守るため、水の流れる方向を変えたり、水の勢いを弱くすることを目的として河岸に設けられる構造物 |
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アドバイザリー レポート by 木公だ章三 |
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2022/07/19 |
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地域シリーズ : 『太閤堤』と巨椋池 (※『太閤堤2022』を再掲) 伏見城を築いた豊臣秀吉は,宇治川を巧みに利用して大坂への水運を確保し,伏見の城下町を築いていきました。宇治川は,琵琶湖から瀬田川という名称で南に流れ,天ヶ瀬ダムの手前で流れを北に変え,世界遺産「平等院」のある宇治市街に入っていきます。平地に入っても川は北方に流れ,桃山丘陵の南で向きを南西方向に変えて,淀川に流れていきます。この秀吉が造り替えた宇治川を,流れに合わせゆっくり見て歩くことにしましょう。 |
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《ご案内》 豊臣秀吉は,桃山丘陵や巨椋池をはじめとする自然・地形を巧みに利用し,伏見城下で一大土木工事を行った。河川関連では,①1594(文禄3)年に槇島堤を築いて宇治川を巨椋池より分離し,北上させて山下まで引き入れ,②1596(慶長元)年に淀より三栖までの堤防(淀堤)を築き,淀川を宇治川・桂川と直結して伏見に港としての機能を持たせた。そして,③宇治川に豊後橋(ぶんごばし,現在の観月橋)をかけ,巨椋池を中断する新大和街道を開いたことがあげられる。この他,④木幡山の山上に防禦用の内堀を造り,⑤同じく防禦用として城の西側に外堀を造るとともに,その土砂をもって外堀西側の低湿地帯を埋め立てた。さらに,⑥七瀬川の流水を曲折させて総外堀とし城下町を囲ませた。この七瀬川は後の高瀬川開削に利用されている。 このように多数の土木工事が完遂され,伏見城を中心に東西約4キロ・南北約6キロにわたる広大な新城下町が建設されることになったのである。 そこで,宇治川を伏見城下に引き寄せた槇島堤を,宇治橋から観月橋まで歩いた。 宇治川は,琵琶湖から流れ出る唯一の川・淀川の通称であり,上流部は瀬田川と呼ばれ,天ヶ瀬ダム上流から宇治川と呼び名が変わる。この川は,かつて宇治橋下流から分流して北西方に流れ巨椋池に流入していたが,太閤堤(槇島堤)の築造により北方に流れる流路にまとめられ,伏見城下に導かれた。 太閤堤の一部・槇島堤は宇治川左岸といわれるが,2007(平成19)年に右岸で太閤堤跡が見つかった。宇治川の旧護岸となるその遺跡は,400メートル以上にわたる長大な護岸遺構で,周辺の地形条件に合わせ,石を積んだ「石積み護岸」や杭木を多用した「杭止め護岸」,要所では岸から川へ張り出した構造物が見られるなど,様々に形式を変えている。 これらの遺構群は,16世紀末に築造されたのち氾濫のため埋没し,近代に新たに現堤防が築かれたため,河川範囲から外れ極めて良好な状況で保存されており,09(同21)年に史跡名勝天然記念物に指定された。 宇治川の西には,80年ほど前まで巨椋池という巨大な湖が存在していた。その大きさは,東西4キロ・南北3キロ, 面積約800ヘクタールというから,甲子園球場の約200倍もの広さだ。京都盆地の最低地で桂川・宇治川・木津川の三川が合流する巨椋池は,増水時に膨大な水が流れ込み,周囲は洪水の常習地帯であった。このため河川の改修工事などが頻繁に行われ,1900年代初頭の三川合流部の付け替えで巨椋池は宇治川と切り離された独立湖になった。しかし,そこに生活廃水や農業排水が流入して水質が急激に悪化し,池の魚類も減少し,いわば死滅湖となっていった。その唯一の対処法として干拓の機運が高まり,1933~41(昭和8~16)年に国営干拓事業が行われ,池は姿を消してしまった。 宇治川を下り,桃山丘陵の南を過ぎると観月橋が見えてくる。この橋はかつて「豊後橋」と呼ばれ,秀吉が伏見城下から巨椋池を割って南下する道を築くために設けた橋であり,これにより新大和街道を開いた。豊後橋は幕末の鳥羽・伏見の戦いで焼失してしまったが,1873(明治6)年に新橋が完成し,この時「観月橋」と名付けられた。 観月橋の西には,鉄骨むき出しの近鉄京都線澱川(よどがわ)橋梁が宇治川を渡っている。この橋梁は,1928(昭和3)年に旧奈良電鉄によって架けられた「下路式曲弦プラット分格トラス橋」。陸軍演習に支障がないよう無橋脚橋梁として建設され,国内最大の径間長165メートルを誇る単純トラス橋で,宇治川の鉄道景観を代表する建造物となっている。 また観月橋の上空には,75(同50)年に新設された新観月高架橋が架かり,外環状線や京阪宇治線をオーバーパスして,道路と鉄道が交錯する過密な交通をさばいている。 桃山丘陵の南部は,宇治川の付け替えと巨椋池の改変によって,まちが大きく変わっていったのである。 |
《フォト》
(資料1)「国指定史跡 宇治川太閤堤跡」宇治市歴史まちづくり推進課 2021年
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