アドバイザリー レポート by 木公だ章三 |
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2021/11/01 |
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(※「ずいき祭2021」を再掲) 秋は祭りの季節です。京都で先陣を切るのが北野天満宮『ずいき祭』です。この祭りは,天神さんを乗せた鳳輦(ほうれん)が巡行するだけでなく,農作物で作られる「瑞饋神輿(ずいきみこし)」が御旅所で飾られ,還幸祭の日に巡行します。その色鮮やかな神輿に上七軒の芸舞妓さんたちも見物し,祭りに花を添えます。今年は,コロナ禍で昨年と同様に神事のみでしたが,瑞饋神輿は作られ御旅所で展示されました。昨年は北野天満宮でも展示されましたので,その様子をご案内します。 |
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《ご案内》 『ずいき祭』は,秋の昼ズイキなどの色鮮やかな農作物で作った神輿「瑞饋神輿」が,北野天満宮の氏子地域を巡る独特の祭りだ。 10月1日から5日まで行われる祭りに先立ち,前月から農作物の収穫や準備作業が行われ,月末にズイキを収穫して翌1日に飾り付け瑞饋神輿が完成する。 この祭りは,平安時代に西之京神人(にしのきょうじにん)が五穀豊穣を感謝し,新穀蔬菜に草花などを飾り付け,菅原道真公の神前に供えたのが始まりとされている。祭り初日は神幸祭。北野天満宮の三基の鳳輦が本社から御旅所(北野神社御旅所)に向かい,御旅所で三日間駐輦される。4日に還幸祭が営まれ,御旅所から北野天満宮へ帰っていく。 一方瑞饋神輿は,1日から4日まで御旅所で飾られ,4日に各町内を賑やかに巡行するが,北野天満宮の境内に入ることなく御旅所に戻る。神幸祭,還幸祭,瑞饋神輿のルートはそれぞれ異なるが,巡行範囲は北が北野天満宮,南が三条通,東が千本通,西が木辻通である。そして翌5日は祭り道具の片付けの後,后宴祭と八乙女「田舞(たまい)」奉納をもって祭りは終了する。 今年は,コロナ禍で昨年と同様に鳳輦渡御が中止となり,神事のみが行われたが,瑞饋神輿は作られ御旅所で展示された。 農作物で作られる「瑞饋神輿」は実に見事だ。屋根には赤の[唐の芋]と緑の[真芋]の2種類のズイキを使い,それらの軒先を丁寧に切り揃えて葺く。唐の芋の頭芋や赤ナス,五色トウガラシを巧みに使い,千日紅の花を糸で通して装飾する。稲藁の梅鉢紋には夏みかんと稲穂を付ける。「西ノ京瑞饋神輿」は京都市登録無形民俗文化財で,西ノ京瑞饋神輿保存会によって継承されている。(資料1) 巡行ルートの一つ上七軒通は,北野天満宮の門前町として形成された花街であり,その歴史的な街並みから「界わい景観整備地区」に指定されている。 上七軒の地名は,1444(文安元)年北野天満宮社殿が焼失した際,社殿修築の残材を使って東門前の松原に七軒の茶屋を建て,参詣人の休憩所としたことに始まるという。豊臣秀吉が北野松原で大茶会を催した際,七軒茶屋を秀吉の休憩所にあて,名物の御手洗団子を献上したことから,五つ団子を上七軒の紋章に用いたとされる。上七軒を神輿が巡行する際には,芸舞妓さんが鑑賞する姿も一緒に見ることができるので楽しみだ。 花街のシンボルの上七軒歌舞練場は,1931(昭和6)年に改築されたものが母体となっている。40(同15)年に罹災し,演芸場や観覧席・食堂・待合室などを残し全体の約6割を焼失したが再建された。戦後は進駐軍が演舞場をダンスホールとして使用したが,52(同27)年の「北野おどり」の創設をもって歌舞練場としての本来の姿を取り戻した。 上七軒歌舞練場は,観覧席部分の大屋根が木造の入母屋造桟瓦葺だが,舞台部分は鉄筋コンクリート造2階建て・外壁タイル貼りであり,木造とコンクリート造を組み合わせた独自の構成となっている。玄関ホール廻りには,池に高覧を巡らせた渡り廊下を設け,巧みに観覧席へ導いている。この歌舞練場は建築的特性のみならず,火災後の復旧や戦後の変遷など,京都の歌舞練場の近代史を示す遺構としても貴重とされている。(資料2) |
《フォト》 |
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