アドバイザリー レポート by 木公だ章三 |
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2022/04/04 |
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地域シリーズ : 『指月伏見城』と桃山丘陵南部 (※「『指月伏見城』2022」を再掲) 豊臣秀吉は伏見に城を築きました。しかし,築城から6年後の1598(慶長3)年に秀吉は伏見城で亡くなりました。この間,秀吉は伏見城の建設だけでなく,堀や河川堤防の築造,街道の整備,城下町の造成など,城下に様々な都市基盤を造りました。そして,この基盤の上に港まち・伏見ができていきました。伏見城はなくなりましたが,城跡の発掘調査が今も続けられていますので,その調査資料を持って伏見城跡とその周辺を巡り歩きました。 |
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《ご案内》 伏見城は四つあった。一つは豊臣秀吉が自らの隠居の城として,1592(文禄元)年宇治川に臨む「指月(しげつ)の岡」に造営したもの。二つ目は,この屋敷を本格的な城郭(指月伏見城)にしたもの。三つ目は,指月伏見城が慶長元年閏7月(1596年9月)の慶長伏見地震で倒壊し,翌年北東の木幡山(こはたやま)に築いた木幡山伏見城。四つ目は,この城も1600(慶長5)年に焼失し,翌年徳川家康が同地に再建した城である。 秀吉は,最初の屋敷を築いた翌年,嫡子秀頼が誕生したことから,これを本格的な城郭に改め,天守などの城郭施設を整えていった。最初の屋敷を築く際,秀吉は「なまつ(地震)」に注意するよう書状で指示しているが,慶長伏見地震であえなく倒壊してしまった。この地震はマグニチュード7.5とされており,阪神淡路大震災クラスの震災が起こったのだろう。この年,国内では慶長伊予地震,慶長豊後地震が次々と発生したため,元号が文禄から慶長に改められたので,これらの地震を「慶長の大地震」と呼ばれるようになった。 指月伏見城はわずか3年間しか存在せず,木幡山に城ができると旧城一帯は大名屋敷に活用されたことから謎が多い。指月伏見城の範囲は,これまで【図1】の破線の範囲と推定されていた。しかし昨年(2021年)行われた桃山駅駅前広場等整備工事に伴う埋蔵文化財発掘調査【図2】で,木幡山城期と指月城期の両方の遺構を検出した。前者の遺構は,江戸時代の絵図を参考にすると浅野但馬守(たじまのかみ)の屋敷地と西側道路とを分ける石垣と門と考えられ,後者の石垣基礎は,木幡山城期の石垣に壊されていることや遺構の方向が異なることから,指月城期に遡る遺構と考えられるという。この結果指月伏見城の北限は,これまで調査地の南側を東西に通る立売通と推定されてきたが,それより北側にも遺構がひろがることが明らかになった。また同一面で両方の時期の石垣に関連する遺構が検出されたのは初めてのことで,伏見城の変遷を考える上で重要な成果だという。 そこで,指月伏見城の痕跡を訪ねて桃山駅の南を歩いた。桃山駅の南側を東西方向に通る立売通は,沿道宅地よりも低いことから堀跡ではないかと推測されている。その南には1962(昭和37)年に入居開始した観月橋団地と旧桃山東合同宿舎の住宅団地が広がっている。このあたりが指月伏見城の推定地だ。この団地の南側には泰長老公園と光明天皇陵があり,その南は崖地だ。崖には大木が茂り,今は南方を望見できないが,城からは崖下の広々とした宇治川と巨椋池をはっきり見渡すことができたことだろう。 立売通を東に行くと光明天皇陵の参道があり,そこから東は急な下り坂だ。坂を下りると桃山丘陵から宇治川に向かう南北道路に出る。この道路は東と西の宅地より一段低い谷底の道だ。この道路を南に下ると宇治川沿いを走る京阪宇治線に突き当たる。その交差点の標識は,大正元年の地図にある「江戸町」だ。この南北道路沿いはかつて秀吉が築いた宇治川からの舟入であり,まるで桃山丘陵に刀を突き刺したように細長く堀り下がっている。桃山丘陵南西部に築かれた指月伏見城の中枢部に船を横付けできるよう,深い掘を設けて舟入を造ったのだろう。その様子がくっきりと地形に残されている。 続く |
《フォト》
(資料1)「「伏見城跡・指月城跡現地説明会資料」京都市文化財保護課 2019.9.23 (資料2)「伏見城跡発掘調査報道発表資料」京都市埋蔵文化財研究所 2021.11.4 |
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2024/08/05 |
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地域シリーズ : 『西高瀬川』を行く 高瀬川を開削したのは角倉了以ですが、西高瀬川は誰が整えたのでしょう?確かに角倉了以は保津川を開削しましたが、嵯峨からその先の市中まで、すなわち西高瀬川は、河村与三右衛門にはじまり、京都府の手で整備されました。西高瀬川には嵯峨から市中に向かう三条ルートと、下鳥羽から市中に向かって遡上するルートがあり、この二つは千本三条あたり、すなわち二条城の南西でつながるのです。そこで今回は、嵐山・一ノ井堰から三条ルートをたどり右京の市街地を眺めてみましょう。 |
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《ご案内》 1606(慶長11)年、角倉了以が保津川を開削し、それまで筏で木材と上積み物資を運ぶことしかできなかったこの川で高瀬舟の運航が可能となり、嵯峨に大量の物資を運び込んだ。これらを水運で市中に運び込むことが求められ、江戸末期に実現したのが西高瀬川である。 西高瀬川は、河村与三右衛門が立案し1863(文久3)年に人工的に開削された川である。桂川を下って嵐山まで運ばれた丹波地域の木材や農産物などを市中に届けるため、従来からあった農業用水路や小河川を改修・利用して連結されたものである。 当時の絵図(『西川通船路新開図』1863年)には、嵐山で桂川から分かれた川筋が途中で南東に下がり、四条通に沿って東に進み千本四条に至るルートが描かれている。天神川四条交差点の北西に三菱自動車工業京都製作所があるが、その南側を四条通に沿って天神川まで流れる水路は「古高瀬川」といい、1863年に開削された元の流路にあたる。しかし3面をコンクリートで固められかつての面影はない。 明治維新後、西高瀬川の整備は京都府に引き継がれ、70(明治3)年竣工の改修工事で嵯峨-千本間が現在の経路に変更されて本格的な舟運が行われるようになった。84(同17)年にはこの川で筏流しの許可が下り、市中への筏による直送体制が確立した。 西高瀬川は南北に流れる有栖川、御室川、天神川と交差し、三条通に沿って千本まで流れたが、1935(昭和10)年の京都大水害を機に、御室川と天神川を統合し河床を深く掘り下げる改修が行われた結果、西高瀬川の流れは分断され、天神川に両側から注ぐことになり、運河としての役割を終えた。 戦後、京都府営の「洛西農業水利事業」が始まり、桂川左岸・右岸の用水幹線の整備、常時浸水地帯のポンプ場建設、それまで11ヶ所あった取水堰の一ノ井堰への統合が進められた。事業は1948年着工、65年完成。それまで西高瀬川は桂川に設けた井堰から直接取水していたが、一ノ井堰の完成により、そこに取入口を設け西高瀬川が始まる井堰まで水路を造ることになった。また53年の有栖川改修で、西高瀬川は有栖川の下をサイフォンによってクロスするようになった。 渡月橋の東約600メートルにある井堰から始まる西高瀬川は、三条通南側の住宅地を東に流れ、有栖川を伏せ越して嵯峨野の田畑に水を供給していく。太秦に入ると蛇塚古墳を避けるように向きを南に傾けながら東進する。 蛇塚古墳の北には松竹撮影所がある。太秦では1935(昭和10)年以降数多くの撮影所が建てられ、日本のハリウッドと呼ばれるほど活況を呈した。その様子を帷子ノ辻駅で見ることができる。同駅の地階スペースは昭和のレトロ感に溢れ、壁には「映画と暮らすまち、太秦」と題する大きなパネルが展示されている。 太秦に初めて撮影所ができるのは26(大正15)年のこと。嵐電北野線と嵐山本線がつながったこの年に、阪妻(阪東妻三郎)プロダクションが撮影所前駅の北東の地で撮影所を建設し、後に東映京都撮影所へと発展していく。また日活(後の大映)も、29(昭和4)年に北区大将軍から太秦撮影所へ移転してきた。35(同10)年以降、映画が無声から発声(トーキー)へ転換するにともない映画業界の再編が進み、京都では日活、松竹、新興キネマ(後の東映)などの撮影所が太秦に集中し、60(同35)年頃には12以上のスタジオを数えたという。しかしテレビの普及により映画産業が衰退するにともない、多くの撮影所が閉鎖・廃止されていった。 帷子の辻駅の交差点から太秦広隆寺駅に向かって通る大映通り商店街は映画とともに発展してきた。「ようこそいらっしゃいまじん!」という掛け声で始まるこの商店街は、戦後三条通のバイパス通りとして、太秦-帷子ノ辻間に位置する生活道路で、毎月5、15、26日に夜店が出店し夜店通りという名前がついていたという。商店街の一角には、66(同41)年に大映京都撮影所で制作された高さ約5メートルの「大魔神」が立ち、街行く人をにらみつける。街は「キネマのまち・太秦」にふさわしい昭和のレトロ感に満ちている。 西高瀬川はこのあと天神川で水を落としてしまう。その先は西大路三条あたりから天神川に向けて水が西に流れる構造になってしまい、この間は普段水の流れない川となってしまった。このため京都府は、2001(平成13)年から新たな親水空間を整備する「京の川づくり事業」に着手し、天神川の水をポンプアップして三条坊町児童公園付近まで流して西高瀬川に降りられる親水護岸と公園を18(同30)年に整備した。 西大路通で西高瀬川は暗渠となって三条通を東に流れ、山陰本線の約200メートル手前で地上に姿を現わす。かつてこの沿川には材木業者が並んでいた。西高瀬川は幕末以降の右京の産業盛衰を刻んできたのである。 |
《フォト》
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2024/04/01 |
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地域シリーズ : 嵐山から『桂川上流』を行く 小倉山の亀山公園展望台から見る桂川は、山を切り裂くように流れる保津峡の景色ですが、ここからは嵐山中腹の千光寺もよく見えます。その下には川沿いに某ホテルが建ち、渡月橋近くからそこへ船で向かうなど、保津峡の風情を満喫しているように思えます。嵐山から桂川を上がっていくと保津峡の先は亀岡盆地ですが、更にその先は北に上がるのでしょうか、それとも東に行くのでしょうか。それでは、渡月橋から桂川の上流をじっくり巡ってみましょう。 |
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《ご案内》 嵐山・渡月橋から西を見る桂川は、左に嵐山、正面に烏ヶ岳が迫り、右手には小高い小倉山が椀を伏せたように据わっている。山にはアカマツやヤマザクラ、イロハモミジ、ケヤキなど様々な樹木が育ち、四季折々に美しい景観を織りなしている。川の中ほどには帯状の白波が立ち、その向こうは川面が静かだ。保津峡を勢いよく下ってきた水が一ノ井堰で堰き止められ、平らな水面を保っている。ここでは保津川下り船や千光寺に向かう船、観光船などが行き交い、川中から嵐山を楽しむことができる。この井堰は灌漑用施設として、古くは5世紀末に設けられたといわれており、嵐山の水辺風景をつくる礎ともなっている。 桂川は古くから丹波と京都を結ぶ輸送路として重要な役割を果たしてきた。長岡京や平安京の造営時には丹波の良質な木材が筏を組んで運ばれたといい、13世紀に筏流しを専門とする筏師が現れ、室町時代末期には豊臣秀吉が筏師を保護して発展した。江戸時代になると1606(慶長11)年に角倉了以が私財を投じて保津川を開削し、木材のほか農作物などの物資が舟運で大量に運ばれるようになった。しかし舟運は、1899(明治32)年の京都鉄道(現JR山陰本線)開通やトラック輸送の出現により徐々に衰退し、現在は「保津川下り」として京都の貴重な観光資源となっている。 嵐山の中腹には、角倉了以が開削工事に関係した人々の菩提を弔うため造ったといわれる大悲閣(千光寺)が建っている。室内には木造の了以像が安置されており、観音堂からは保津峡を見下ろすことができる。 ところで、京都にとって欠かすことのできない桂川は、いったいどこから流れてくるのだろう。桂川は丹波高地の佐々里峠を源とし、左京区広河原から鞍馬街道沿いを南東に流れる。京都市と美山町との境にある佐々里峠には立派な石室があり、峠にたどり着いた旅人の疲れを癒してくれる。 つづら折りの峠道を京都方面に下っていくと、右手にスキー場が見えてくる。京都市内で唯一残る広河原スキー場だ。かつては大勢のスキー客で賑わったが、近年は雪不足で不定期開催となっている。このあたりで桂川は鞍馬街道と交わり、広河原から花脊へと流れていく。スキー場から約2キロ先の早稲谷川(わさだにがわ)との合流点は広河原の松上げ場となっていて、集落の祭りの場として整えられている。さらに京都方面に約6キロ行くと、山村都市交流の森近くの河川敷に花脊の松上げ場がある。谷あいを曲がりくねって流れる桂川の広い河原を利用し、周辺の道路や橋、田畑からよく見える場所に祭り場が設えられている。桂川上流では、川が集落の祈りの場所としても活用されているわけだ。 桂川は花脊大布施町で西に向きを変え、京北地域の集落をグルグル回って周山町に至る。そこで周山街道沿いを流れる弓削川と合流して宇津峡に入り、日吉ダムによってできた天若湖(あまわかこ)となる。日吉ダムは、洪水調節と利水等を目的に1998(平成10)年から運用開始された総貯水容量6,600万立方メートルのダム。これは天ヶ瀬ダムの2.5倍の貯水量に相当する。湖の名称は、水没した201世帯の地区名を採って「天若湖」と名付けられた。 日吉ダムを流下した桂川は、南に向きを変え亀岡盆地へ入っていく。この盆地はかつて大きな湖だったといわれており、川によって運ばれた上流の土砂がここに堆積し、まとまった盆地を形成した。 亀岡盆地は、最下流の保津峡部分が狭窄部を形成しているため、これまで幾度となく氾濫をくり返してきた。特に60(昭和35)年の台風16号では戦後最大の出水を記録し、JR亀岡駅周辺まで浸水するなど多くの被害をもたらした。このため 71(同46)年の「淀川水系工事実施基本計画」改訂で、桂川の治水対策は日吉ダムによる洪水調節と、保津峡開削を含む河道改修によることとされた。治水対策の大きな柱である日吉ダムは、基本計画(改訂)から27年後の98(平成10)年に完成し、治水安全度は飛躍的に向上したのである。 桂川は亀岡盆地を縦断し、南部の馬堀駅あたりで東に向きを変え、保津峡を流れて谷口部の嵐山・渡月橋に向かう。途中、落合橋で清滝川と合流し、勢いを増して保津峡を流れ落ち、嵐山に流れ着く。 (続く) |
《フォト》
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