木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

157

2026/5/4

地域シリーズ : 隨心院『はねず踊り』と勧修寺界隈

京阪電車で「東海道57次」の吊広告を見ました。東京-京都間の東海道53次に、京都の手前で分岐し大阪までの4つの宿駅を加えて東海道57次と呼んでいます。4つの宿駅は京阪電車の駅近くですが、山科区内を通るこのルートの近くには明治時代に旧東海道線が敷設され、勧修寺近くには山科駅が設置されました。そこで東海道57次ルートを通って、かつて山科駅があった小野、勧修寺界隈を巡りましょう。

《ご案内》

日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る東海道には江戸時代に53の宿駅が設けられ、東海道53次と呼ばれた。しかし京都の手前、大津宿から逢坂山を越えた追分で南に下り、稲荷山の南を通って伏見に行き、淀川沿いに高麗橋(大坂)まで行くルートもあった。このルートの宿駅は、大津宿から伏見、淀、枚方、守口と続き、合わせて東海道57次となる。この57次は、西国大名が天皇のいる京都を通ることなく江戸へ行き交うことのできるコースであった。今では追分から南に分岐する道を奈良街道と呼び、小野の辺りで西に折れ、深草まで行く道を大岩街道と呼んでいる。

この奈良街道から大岩街道に続く勧修寺周辺には、1879(明治12)年に開通した旧東海道線の山科駅が存在した。旧東海道線は1921(大正10)年に廃線となるが、その跡地は1963(昭和38)年に開通した名神高速道路として利用されたので、大正期の地図を持ってかつての山科駅を探しに小野地域や勧修寺周辺を歩いた。

奈良街道を南に下り、名神を過ぎると小野の隨心院がある。隨心院は弘法大師八代目弟子・仁海僧正が991(正暦2)年に創建したもの。もとは牛皮山曼荼羅寺といったが、第五世増俊が曼荼羅寺の塔頭として隨心院を建立し、後堀河天皇より門跡の宣旨を受け門跡寺院となった。この辺りは小野一族が栄えた場所で、小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたとされる文塚や、化粧の井戸などが残されている。

梅の香や
少将の夢 踊り継ぐ
隨心院では毎年3月最終日曜日に『はねず踊り』が行われる。「はねず」とは薄紅色のこと。万葉集にもその名が見られる伝統色で、唐棣花、朱華などの字が当てられた。唐棣とは庭梅の古名で、隨心院小野梅園に咲く紅梅は古くからこの名で親しまれていたという。

勅使門前に舞台を設置して開催された今年のはねず踊りは、地元の小学生による「はねず踊り」、はねず踊り経験者による「隨心院今様」、そして京都瓜生山舞子連中による「大蛇」が演じられた。

はねず踊りは小野小町に恋した深草少将の百夜通い伝説にちなみ、江戸中期に地元の子が家々を訪ねて踊ったとされる。大正期に途絶えたが、1973(昭和48)年に地元有志が復興した。舞台の上では薄紅色の和服で着飾った少女10人が愛らしい踊りを披露した。

隨心院から西に0.8キロ行くと「勧修寺氷池園」という庭園が有名な勧修寺がある。この寺は900(昌泰3)年に醍醐天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔うため、胤子の実家・宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりといわれ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、1470(文明2)年に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。境内の南に氷室池が大きく広がり、北に書院、宸殿、本堂が並んでいる。本堂は霊元(れいげん)天皇より仮内侍所を、書院(重文)と宸殿は明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。

勧修寺庭園は、氷室池を中心とする池庭と書院南に広がる平庭の二つの部分からなる。氷室池まわりの池泉回遊式庭園は平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名。平庭にはハイビャクシンが一面に枝を広げ、その中に大きな傘を持つ勧修寺型灯篭が据えられている。背後には南大日山の稜線が迫り、庭園の一角に観音堂(1935年築)が設けられるなど、奥行感のある空間構成となっている。

隨心院と勧修寺の間に流れる山科川を北に上がり名神をくぐると、山科川デルタが現れる。山科川と旧安祥寺川の合流点にできたデルタは勧修寺公園として整備され、休日には水辺で親子が楽しんでいる。山科川沿いの広い遊歩道は桜並木が続き、絶好のお花見スポットとなっている。

山科川から名神の南側側道を東に行くと「旧東海道線山科駅跡」の石碑が現れる。この説明板によると、京都-馬場(現・膳所)駅間の16キロは急こう配区間がつづき、列車速度や牽引定数の大きな制約となったため、勾配が緩和された東山トンネルと新逢坂トンネルを経由する現在のJR東海道本線(琵琶湖線)ルートに変更され、山科駅も現在のJR山科駅に移転したという。この場所には、日本最初の高速道路「名神起工の地」の碑も立っていた。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

156

2026/4/6

地域シリーズ : 『小山二ノ講』と牛尾道

京都市山科区と大津市との境にある音羽山から京都方面に流れる音羽川は、牛尾山法嚴寺に通じる牛尾道に沿って小山地域を流れ山科川となります。牛尾道はハイキングコースとしても有名で、沿道には地域の産土神である白石神社や水車小屋、蛙岩、音羽の滝など見どころがたくさんあります。毎年29日には小山地域で小山二ノ講が行われ、藁で作った長さ13メートルの大蛇が音羽川べりの「山の神の山の前」に掲げられています。そこで『小山二ノ講』を見て牛尾道を巡りましょう。

《ご案内》

山科盆地の北東部に位置する小山地域では、毎年29日に小山二ノ講(二九)という伝統行事が行われる。今年の二ノ講は雪の降る中で始まった。小山の旧家約20軒で構成される小山二ノ講保存会の皆さんが早朝から小山総合センターに集まり、藁を網状に編んで長さ13メートルもの大蛇(勧請縄)を作る。太い竹に胴体を巻き付け、目にはみかんを用い、大きく開けた口を赤く着色して甘酒を飲ませる。そして、割竹を削って輪にしたものに樒・松・御幣を付けた足を13作り、そのうち12を胴体に吊り下げて完成だ。午後お祓いをした後、この大蛇を担いで地区内を練り歩き、音羽川べりの「山の神の山の前」まで運んで、牛尾山に向けて杉の木に掲げる。13個目の足は音羽川の水源地とされる場所まで持ち運び、木の枝に吊り下げて行事は終わる。この日は、大蛇を飾る柱が根元から倒れるトラブルがあったが、参加者が協力して無事掲げ、五穀豊穣や無病息災を祈った。この大蛇は来年の二ノ講まで現地に掲げられる。

小山二ノ講は、鎌倉後期の1313年、牛尾山の麓に生息していた大蛇を退治したことで大雨洪水が度々起こり、霊を鎮めるため藁の大蛇を祀ったことが由来とされ、京都市の無形民俗文化財に登録されている。大蛇の口を赤く塗るのは、人や動物を喰ったことを表しているという。この大蛇伝説では、大蛇の血が音羽川を赤く染め、東山にある清水寺の音羽の滝が一日一夜赤く染まったという。

小山地域への最寄り駅は京阪追分駅。駅の南側の国道1号をくぐって旧東海道を西に行き、髭茶屋追分で奈良街道をしばらく行くと「牛尾山道」の道標が現れる。ここから東が牛尾道。この道を東に行き、名神高速をくぐると二ノ講が行われる小山地区になる。

牛尾道はかつては法嚴寺に行く道として賑わったといい、今も音羽山や上醍醐につながるハイキングコースとして親しまれている。道沿いの音羽川には、水車小屋や蛙岩、音羽の滝、蛇壺など見どころがいくつもあり、その先に牛尾山法嚴寺がある。

法嚴寺は、清水寺の開山として知られる延鎮上人が778(宝亀9)年に創建したとされる。本尊は天智天皇作と伝わる十一面千手観音菩薩像。脇壇には延鎮上人、行叡居士の像が安置されている。江戸時代には清水寺との所縁から「清水寺の奥の院」と呼ばれたが、明治になって廃仏毀釈により荒廃した。江戸時代に建った本堂は京都府暫定登録有形文化財だ。

小山地域を南北に走る名神高速は、かつては東海道線のルートであった。1879(明治12)年に営業を始めた当初の東海道線は、京都駅を出ると現在の奈良線を通って稲荷山を迂回し、深草で名神のルートに乗って大谷駅(現在の京阪大谷駅付近)、馬場駅(現、膳所駅)へとつながっていた。この路線は1921(大正10)年に廃線となり、廃線跡を利用して1963(昭和38)年に名神高速が開通した。そこで、小山から名神の脇道を通って東海道(国道1号)に合流し、京阪京津線の大谷駅から上栄町駅まで旧東海道線逢坂山隧道(トンネル)跡を巡った。大谷駅を北へ行くと名神のトンネル入口近くに「旧東海道線 逢坂山とんねる」(西口跡地)の石碑が建っている。この隧道の東口は、京津線と国道1号が交差する逢坂一丁目の西にある。ここには隧道の入口部分が残っていて、京大防災研究所が地震観測所として利用している。この隧道の西口は名神高速のトンネル西口とほぼ同じだが、東口は名神より大きく北に振れており、当初の東海道線は逢坂山を斜めに貫通していたことが分かる。

逢坂山を東海道(国道1号)で越えると、途中に逢坂山関跡や、盲目の琵琶法師・蝉丸を主神とし音曲芸道の祖神として崇められる蝉丸神社の上社・下社・分社が建ち、逢坂山の深い谷あいにできた街道としての歴史を感じることができた。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

154

2026/2/2

地域シリーズ : 『坂本界隈』を巡る

比叡山に登り延暦寺や日吉大社の文化財建造物を見て回りましたが、その多くが江戸時代以降に再建されたものでした。それは1571(元亀2)年、織田信長の比叡山焼き討ちで焼失したからです。この焼き討ちで延暦寺だけでなく坂本の町も焼けてしまい、数千人の犠牲者が出たといいます。その後、坂本は延暦寺や日吉大社の門前町として復興し、今では里坊寺院や公人屋敷が穴太衆積みの石垣で囲われた独特の景観を形成しています。それでは坂本界隈を巡ってみましょう。

《ご案内》

延暦寺・日吉社が灰燼に帰したとされる織田信長の比叡山焼き討ちとはどのようなものだったのだろう。

信長・秀吉に仕え、晩年軍記の著作に専念した太田牛一の『信長公記』は次のように描写している。(元亀二年)九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を始め、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と化した。山下の男女老若は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆はだしのまま八王子山へ逃げ登り、日吉社の奥宮に逃げ込んだ。諸隊の兵は攻め上り、僧俗、児童、智者、上人すべての首を切り、死者は数千を数えた。この記述が後の評価に大きく影響している。

一方、昭和後期の延暦寺発掘調査に基づく兼康保明の『織田信長比叡山焼討ちの考古学的再検討』によれば、元亀の焼き討ちによる焼土跡が山上で確認されたのは、根本中道・大講堂のみであり、他の諸堂は元亀年間のはるか以前の時代に廃絶されたものが江戸期になってから再建されたとおぼしきもので、一部の礎石や根石に焼け跡が検出されたが、出土遺物などと併せると、少なくとも元亀焼き討ちの遺構とは判断されなかったとしている。横川中道についても、元亀の焼き討ちを裏付けるものは何もないとしている。

これらから延暦寺の被害を推定するのは難しいが、山下の日吉社と坂本の町は壊滅的な被害を被っている。

比叡山東麓の坂本は延暦寺、日吉社の門前町として栄えるとともに、山上で修行していた僧侶の隠居所である里坊が集中したところである。平安貴族の信仰を集めた延暦寺は、中世には各地に多くの荘園を有する権門勢力としての性格を合わせ持つようになるが、その経済力を支えたのが坂本であった。各地の荘園から比叡山に運ばれる物資はもちろん、各地から京都へ運ばれる物資もその多くが坂本で陸揚げされ、坂本には馬借や車借、問丸などが軒を並べるようになっていった。

しかし信長の比叡山焼き討ちにより、坂本の町が焼失してしまった。信長は焼き討ち後、明智光秀に坂本城を築かせ坂本の復興にあたらせた。豊臣秀吉も日吉社を中心とした坂本の復興に力を注ぎ、坂本は門前町として復興されていった。その復興は江戸時代にもひき続けられ、1623(元和9)年徳川三大将軍家光の時、東照宮造営に縁の深い天海上人が日吉大社の南に日吉東照宮を造営している。日吉東照宮は本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」様式を用いており、日光東照宮はそれを基に再建したといわれている。

こうした変遷の結果、坂本は里坊寺院と町屋、公人と呼ばれる社寺侍の屋敷など、他には見られない町並みを形成していった。里坊は道路に面して門を構え、穴太衆積みの石垣に塀や生垣をめぐらし、清涼な川や水路とともに優れた歴史的風致を伝えており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

信長の命を受け琵琶湖畔に坂本城を築いた光秀は、坂本の復興と近江国の平定を推し進めた。このころ光秀は焼き討ちで焼失した西教寺の復興にも力を注ぎ、妻熙子が亡くなると墓を同寺に建て自ら埋葬している。しかし1582(天正10)年、本能寺の変で信長は自害。光秀は山崎の戦いで敗れ坂本城も落城した。亡くなった光秀とその一族は西教寺で埋葬され墓が建てられている。坂本城は1586(天正14)年に大津城ができて廃城となっており、わずか15年の短命の城であった。

光秀の菩提寺である西教寺は、日吉大社から北約1キロのところにある。同寺は飛鳥時代に聖徳太子が創建し、平安時代に延暦寺関連寺院として慈恵大師良源と恵心僧都源信が復興したといわれている。比叡山焼き討ちで堂舎は焼失したが、本堂は1739(元文4)年に再建された。総欅入母屋造の豪壮な伽藍をなし、堂内は江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されている。客殿は桃山御殿ともいい、秀吉の居城伏見城にあった旧殿を移築したものという。本殿、客殿ともに重要文化財だ。光秀との関係では、総門が坂本城門を移築、梵鐘は陣鐘を寄進したと伝えられる。総門から勅使門まで続く約150mの参道は四季折々の風情が楽しめ、秋には「もみじ参道通り抜け」として大勢の人々が訪れる。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

150

2025/10/6

地域シリーズ :廃都後の長岡京と『長岡天満宮』

長岡京は僅か10年で廃都されましたが、その後どうなったのでしょう。これまでに宮城と京域を合わせて1600回を超える調査が行われているといいますが、そこからは長岡京の姿がどのように描かれるのでしょう。また、廃都理由として怨霊説が有名ですが、その痕跡はあるのでしょうか。長岡宮を巡り歩くといろいろ疑問がわいてきます。そこで今度は、長岡天満宮周辺から長岡京域を歩き、在りし日の長岡京を想像してみましょう。

《ご案内》

長岡京は、現在の向日市域に大内裏が置かれ、長岡京市域には東西二つの市があった。淀川では、都の西南にあたる大山崎町付近に山崎津、東方に淀津などの水陸運の要所が展開された。しかし遷都から10年後の794(延暦13)年、長岡京は廃都された。その背景には、藤原種継暗殺事件や東北地方支配政策のゆきづまり、たびたびの豪雨水害や伝染病の流行などがあったが、廃都理由としてよく説かれるのが怨霊説。ことのはじまりは、遷都を進言し推進者であった藤原種継が遷都翌年に暗殺される事件が起き、背後にいたとされた大伴家持の関係者として皇太弟の早良親王に嫌疑がかけられたこと。親王は乙訓寺に幽閉され、絶食して無実を訴えたまま淡路に流される途中で船中死してしまい、それ以後、桓武夫人・生母・皇后が相次いで亡くなり、皇太子安殿親王も重病となるなど、これら一連のことが早良親王の祟りによるというもの。加えて792(延暦11)年に長岡京で起こった二度の大洪水も祟りによるとされ、平安京に再遷都したとするものだ。

これまでの長岡京発掘調査では、京域縁辺部ほど長岡京遺構の分布が希薄で、道路側溝が不自然に途切れ工事途中で止めたと考えられるところがあり、実際の造営範囲は全体の6割強ほどしか達成されていないことがわかってきた。また京域北側では従来にない新基準で宅地割りが行われるなど、造営途中で都市計画が変更された状況が確認できるという。このため考古学的には、造営が中断して整備が遅れ、都市計画の大幅な変更によって本格的な都城の造営が破たんしてしまったと考えられている。

廃都後は、多くの建物が平安京へ移され、長岡旧京の条坊も次第に廃絶していくが、条坊街区を一部利用しながら藍圃や蓮池など、土地の班給が行われた。こうして旧京の条坊全体に条里地割が再施行され、農地化が進み、公家や社寺が荘園として管理するようになっていった。

JR長岡京駅を西に行くと長岡天満宮が鎮座する。長岡京の条坊制でいえば右京五条三坊あたりだ。菅原道真が太宰府へ左遷されるとき名残を惜しんで木像を贈り、それを祀ったのが始まりとされる長岡天満宮は、創立時期は不明だが、応仁の乱の兵火で社殿が消失し1498(明応7)年に再建したとの記録が残る。1601(慶長6)年に周辺が八条宮家領となると、桂離宮を造営した八条宮智忠親王によって「八条ヶ池」が築造され、西山連峰を借景とした庭園として美しい景観がつくられた。1690(元禄3)年には本殿等の造替が行われた。

興味深いのは、現在の本殿が1941(昭和16)年に平安神宮旧本殿の譲渡を受け建築されたことだ。平安神宮は、平安建都千百年を記念し1895(明治28)年に創建されたもの。創建時の主な建物は、平安宮朝堂院を模して計画された大極殿・東西歩廊・蒼龍楼・白虎楼・應天門と、その背後に桓武天皇を祀る社殿として設けられた本殿・祝詞舎・透塀・後門であり、伊東忠太らの設計。このうち社殿は、1938(昭和13)年の孝明天皇合祀による新本殿建築に伴い解体されることとなり、長岡天満宮は平安神宮にそれらの無償譲渡を請願し、承認されたのである。直ちに社殿を解体し、旧本殿の背後を整地して新本殿を建設した。三間社流造、檜皮葺の本殿は、平安神宮創建当初の本殿の姿をよく保ち、当初材が再用されていることも確認できることから、京都府有形文化財に指定されている。

長岡天満宮から北に約1.5キロ行くと早良親王が幽閉された乙訓寺がある。長岡京の条坊制でいえば右京三条二坊あたり。同寺は、推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したと伝えられる古刹で、長岡京遷都のとき大増築されたという。戦国時代には戦火を受け一時衰退したが、1695(元禄8)年、五代将軍綱吉の護持僧であった隆光が、綱吉とその母桂昌院らの援助を得て再興し、大師堂(本堂)や八幡社が現存している。

乙訓寺を東に行くと長岡第七小学校北側にまとまった農地があり、そこから北を眺めると向日丘陵の南端がはっきりと見える。ここには向日神社があり、長岡京最初の内裏「西宮」がこのあたりに置かれたわけだ。こうしてみると、長岡宮は京域からよく見える位置に造営されており、平地に造営された平安京とは違った様相を呈している。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(出典1)「長岡京跡の条坊」(公財)長岡京市埋蔵文化財センター公式サイト