木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2021/06/07

地域シリーズ : 『府立植物園』と賀茂川に架かる橋

前回は植物園の中を歩きました。12千種の草花が咲く植物園は,1924年に開園し,およそ100年が経ちました。戦後12年間連合軍に接収されましたが,1961年に憩いの場,教養の場として再スタートを切りました。1992年には観覧温室もでき,京都では見られない植物もここで見ることができるようになりました。また,あの少女像も加わり,訪れる楽しみがますます増えていきます。この植物園でくつろいだ後,桜の花咲く半木(なからぎ)の道を歩きましたので,ご案内します。

《ご案内》

植物園を後にして,北山通から賀茂川左岸を下った。“なからぎの道”である。道沿いは桜並木が続き,春にはピンクのトンネルとなって,大勢の人々が待ちわびた春を満喫する。対岸の加茂街道にも桜が並び,賀茂川を吹き抜ける風に乗って,桜の花びらが両岸に舞い散る。この風に誘われるように人や鳥たちが川沿いを楽しそうに歩き・走り・憩う。植物園からは,少しうるさいぐらいの鳥たちの鳴き声が聞こえ,都会に残る動植物の宝庫のようだ。北山大橋から北大路橋までの,一周1.9キロの賀茂川河川敷は,ランニングコースにもなっていて,来る人を拒まない超豪華なお散歩コース(約30分)だ。

賀茂川に架かるこの2つの橋は,植物園周辺のまちづくりの象徴でもある。北大路橋は1933(昭和8)年に架設され,翌年には市電・北大路線が全線開業して,千本通から高野まで北大路を市電が走った。そして,橋の両岸で土地区画整理事業(北第一地区・北第二地区)が公共団体施行で始まり,1943(同18)年に完了している。植物園周辺が,北大路橋の開通で急激に市街化していったのである。

北山大橋は戦後の1962(同37)年に架設された橋である。その前年に,戦後12年間連合軍に接収されていた府立植物園が,憩いの場・教養の場として一新され,公開された。また京都府立大学は,この橋が竣工した年に全学舎を現在地に統合している。戦後の文化ゾーンとしての出発点が,植物園の再開と北山大橋の開通であったわけだ。

北山通をよく見ると,賀茂川の西側では道路が真東に向かって走っているが,東側では少し北を向いている。そして北山大橋は,賀茂川に対してほぼ直角に架かっている。どうしてだろう。そこで,府が植物園の用地を購入する前後の地図(図1:大正11年都市計画基本図,図2:大正元年正式地形図)を比べてみた。これによれば,植物園北側の道は大正元年に既に存在しており,その道が道路として整備され北山通の線形となっていったと考えられる。一方賀茂川の西側は,昭和初期の土地区画整理事業によって北山通が真東を向いており,両者の向きの違いをつなぐように,北山大橋が賀茂川に対してほぼ直角に架けられたようだ。近代化以前の地歴が植物園を介して現代にも受け継がれているといえるだろう。

植物園から賀茂川沿いは京都マラソンのコースにもなっている。上賀茂神社から賀茂川右岸を下って北山通を東に進み,高野川で折り返してきたランナーは,植物園の北山門から入って“ワイルドガーデン”を南下し,“くすのき並木”を西行。“観覧温室”の横を北上し,突き当りの“なからぎの森”を反時計回りに回って賀茂川門から出る。途中,祇園の芸舞妓さんたちの応援を受け,疲れも吹っ飛ぶことだろう。北山通に戻ったランナーは,北山大橋を渡って加茂街道を下り,北大路橋の手前で河川敷に降りて丸太町橋まで川沿いを一気に下る。この間ランナーは,車両を止めることなく,北大路橋,出雲路橋,葵橋,出町橋,賀茂大橋,荒神橋をくぐって丸太町橋の手前で道路に上がってくる。川沿いを緩やかに下るこの区間は,後半戦とはいえ爽快な走りが期待できることだろう。

植物園と賀茂川は,一体となって京都の大舞台を演出している。

《フォト》