木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート             by 木公だ章三

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2021/03/15

地域シリーズ : 高野川と『大原』

♪京都大原三千院♪で「恋に疲れた女がひとり」どこへ行ったのでしょうか?

デューク・エイセスが歌った昭和の名曲ですが,「結城に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯」の姿で,もちろん三千院を訪れました。しかし2番では,栂尾(とがのお)高山寺に寄っていました。さらに3番では,嵐山(らんざん)大覚寺にも寄っていました。なんと欲張りなことでしょう。

そこで,秋の大原をのんびりと歩きましたので,ご覧ください。

《ご案内》

途中峠を源とし出町柳で賀茂川と合流する高野川を,バスで北に上がった。高野川沿いに走る公共交通は叡電と京都バスだが,叡電は八瀬で止まり,その先は京都バス1本である。このバスは,高野川に寄り添って,左岸と右岸を縫うように走る。

比叡山の西側を尾根とほぼ平行に流れる高野川は,京都府と滋賀県の境で繰り広げられる地殻変動の結果できた水の道だ。この川の東側には,吉田山の辺りから滋賀県今津町に向かう花折断層が走り,右横ずれ断層(※)になっていて,水平方向に強い力がかかっていることが分かる。この激しい地殻の動きにより,比叡山の尾根筋に平行して谷ができ,ここに周囲の山から水が集まり,下流に向かって流れ,高野川となったのである。山間部を流れる高野川は平地が少ないが,比叡の山々と金毘羅山,瓢箪崩山に囲まれた窪みに,まとまった平地が形成された。これが「大原」の中心地だ。この平地の広さは,叡電以北の岩倉地域に相当し,まとまった大きさだ。

出町柳からバスで30分の大原は,京都有数の観光地だ。大原入口の花尻橋で下車し,若狭街道から三千院に向かう道に入っていくと次第に店が増え,気分が高揚してくる。所々で古民家を活用したカフェ等が店を開き,立ち寄りたくなるが,まずは拝観。先を急いだ。

最初に向かった三千院は,延暦年間(782806)に最澄が比叡山東塔南谷に一宇を構えたことに始まり,明治維新後大原の地に移り,「三千院」として1200年の歴史をつないでいるという。境内に入って宸殿を過ぎると,同院の歴史の源とも言える往生極楽院が建っている。この御堂は,祀られている国宝の阿弥陀三尊像に比べて簡素だが,ここに納める工夫として天井を舟底型に折り上げているのが特徴だ。堂内中心に鎮座する阿弥陀如来は来迎印を結び,右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で,左側の勢至菩薩は合掌し,両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で,慈悲に満ちた姿だという。

昭和の歌にもなった三千院から,律川を上ると音無の滝に出る。滝の音と声明の声が和して滝の音が聞こえなくなったという「音無」の滝が,よく来てくれたとばかりに飛沫をあげて歓迎してくれた。ここは大原盆地の東側,梶山の麓になる。反対の西側,翠黛山の麓には建礼門院の閑居御所であった寂光院が佇む。そこまで農地や集落の道をのんびり歩いていくと,再びお店や民宿の並びが現れ,その先に寂光院があった。

寂光院は尼寺である。594(推古2)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられ,聖徳太子作の六万体地蔵尊が当初の本尊であったという。2000(平成12)年59日未明に発生した寂光院の火災は,首里城消失に匹敵するほど衝撃が大きかった。この火事で本堂が焼け落ち,鎌倉時代に作られた旧本尊が焼損したが,今は修復されて収蔵庫に安置され,本堂には模刻された地蔵菩薩像が安置されている。桃山時代頃の特色を残した本堂は,住職の「すべて元の通りに」の言葉通り,焼け残った木組みや部材を調査し,5年の歳月を経て落慶した。

大原は観光地であると同時に都市近郊農村でもある。集落や寺社は山際に立地し,盆地の中央部は優良な農地である。盆地中央を高野川が流れ,その周囲に農地が広がっている。あぜ道を歩きながら四方の山々と麓の集落を眺める景色は,大原でしか見ることのできない貴重な京都の風景だ。歴史と自然にあふれた大原盆地のまち歩きは,1日では物足りない旅であった。

《フォト》