京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2025/7/7 |
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地域シリーズ : 藤森神社『駈馬神事』と深草 5月5日こどもの日には全国各地で馬乗り行事が行われます。京都市伏見区の藤森神社では、この日に藤森祭が行われ、境内で「駈馬(かけうま)神事」が行われます。約180メートルの参道を一気に駆け抜け、馬上で様々な技が繰り出されるのです。近年、動物を伴った行事が動物虐待と指摘される事例が見受けられますが、藤森神社では伝統と動物愛護の両立を目指した取り組みも見られました。この機会に藤森神社のある深草地域の歴史も巡りましょう。 |
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《ご案内》 端午の節句(5月5日)に藤森神社で営まれる「駈馬神事」は、早馬ではなく、疾走する馬上で曲芸的な技を人馬一体となって繰り出されるものだ。中学生から60代の騎手(乗子)が約180メートルの参道を駆け抜け、あおむけになり矢に当たったと見せかける「藤下がり」や、馬上で墨と筆を用いて字を書き後方に伝える「一字書き」など、難しい大技を決めると大きな歓声が上がった。 この神事は781(天応元)年、早良親王が陸奥への出陣を前に藤森神社で祈願した際の擬勢を象ったものとされ、江戸時代には警固の武士や各藩の馬術指南役、町衆らが技を競いあったという。明治以降は藤森神社の氏子に引き継がれ駈馬神事として行われている。 今年の神事では伝統と動物愛護の両立を目指し、1頭当たりの疾走回数を5回に制限し、3頭の馬が計15回疾走して観客を魅了した。 藤森神社は、約1800年前に神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社で、近郊にあった三つの社が合祀され現在の藤森神社となった。社伝によると、神功皇后が朝鮮半島出兵後、凱旋帰国して使用した旗と武器を納めたのが起こりとされ、その時納めた旗の塚(旗塚)が本殿東側にある。同社は菖蒲の節句(端午の節句)発祥の神社としても知られ、今日では勝運と馬の神様として競馬関係者や競馬ファンの参拝者でにぎわう。 本殿は1712(正徳2)年に中御門天皇より下賜された御所の賢所(内侍所)で、現存する賢所では最古のもの。1438(永享10)年に足利義教が造営したとされる境内社の八幡宮本殿と大将軍社社殿は国の重要文化財だ。 藤森神社周辺は、明治後期以降、軍都としての性格を帯びてくる。同社境内には京都歩兵聯隊跡の石碑が立ち、1896(明治29)年新設された第4師団(大阪)歩兵第38連隊が駐屯したこと、1904(同37)年に深草に司令部をおく第16師団が新設され第38連隊はその配下になったことなどが記されている。 藤森神社の東側にある京都教育大学教育資料館「まなびの森ミュージアム」は、旧陸軍第19旅団司令部を改装したものだ。1897(明治30)年に第19旅団司令部、京都連隊区司令部、歩兵第38連隊がおかれ、1908(同41)年にはこれらを統括する第16師団もやってきて、のどかだった深草の地は軍事的な要地へとかわっていった。日中戦争が本格化するなか、第16師団は上海・南京へと転戦、第19旅団は歩兵団となってフィリピンへ移動、その後おかれた第53歩兵団もビルマ(現ミャンマー)へ出征してしまい、1945(昭和20)年に終戦をむかえた。戦後アメリカ軍の藤森キャンプとなったが、57(同32)年に京都教育大学の前身の京都学芸大学がこの地に移り、学長室や職員会館としてこの建物が使われ、今は教育資料館となっている。 藤森神社の西には琵琶湖疏水鴨川運河が流れる。鴨川運河は、琵琶湖疏水のうち左京区冷泉通の鴨川合流点から鴨川東岸を南に下り、伏見区堀詰町までの全長約9キロの運河だ。大津-鴨川合流点間の疏水工事が1890(明治23)年に完成した2年後、鴨川運河の工事が始まり1894(同27)年に完成した。墨染にはインクラインが設けられ、この運河の完成によって大津から大阪までの舟運が可能になった。藤森神社北側を西に行くと1925(大正14)年竣工の藤ノ森橋が架かり、その北には七瀬川が立体交差する「七瀬川くぐり」、南にはインクライン跡が見られるなど、鴨川運河には特徴ある橋や運河施設が群をなしている。 江戸時代には伏見から京や大津に向かう街道沿いのまちであった藤森神社周辺は、明治以降まちの様相が大きく変わっていった。京都駅から稲荷山を迂回し大岩街道沿いに山科へ向かう当初の東海道本線が1880(明治13)年に開業し、94(同27)年には鴨川運河が完成した。1908(同41)年になると深草地域に第16師団が移転し、10(同43)年に鴨川運河の横を走る京阪本線が開業して、軍都としての色合いが強まっていく。戦後、軍用地は一時米軍キャンプ地となるが、その後学校や病院等に活用され、今では3つの大学を有する学都の色彩も加わってきたのである。 |
《フォト》
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2025/6/2 |
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地域シリーズ : 『石清水八幡宮』と男山周辺 桂川、宇治川、木津川は男山と天王山に挟まれて三川が合流し、淀川となって大阪湾に流れて行きます。二つの山の間隔は山頂部で2.9キロ、山ぎわを走る京阪本線とJR京都線との間は約1.16キロです。この狭窄した空間に鉄道4本と主要道路2本が走っています。江戸時代には左岸に京街道、右岸に西国街道が通り、淀川では舟が運航していたので交通の要衝でしたが、男山に鎮座する石清水八幡宮は、淀川の方でなく山の東側にあります。そこで男山周辺を巡ってみましょう。 |
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《ご案内》 桂川、宇治川、木津川の三川合流地に位置する男山は、木津川を北に押し上げ、その北東に昭和初期まで存在した広大な巨椋池を形作った。山上には石清水八幡宮(明治の頃には「男山八幡宮」と称した。)が鎮座し、京都盆地を見下ろすことができる。 石清水八幡宮の創始は、859(貞観元)年、僧行教が宇佐八幡宮で受けた神託に従い、山城国男山山頂に八幡大菩薩を勧請したものとされる。現在の境内は、本社社殿群のある山上の上院、北麓の頓宮を中心とした下院、西方の飛地境内に鎮座する摂社狩尾社からなる。創建当初より神仏習合の八幡宮寺を構成していたとみられ、公家や武家をはじめ、広く崇敬を集めた。社殿はたびたび焼失したがその都度復興し、近世初頭には1580(天正8)年の織田信長による社殿修復に続き、98(慶長3)年から豊臣秀頼による境内再興が行われたという。現在の本社社殿群は1634(寛永11)年に江戸幕府により造替されたものだ。本殿は、桁行12間の内殿と外殿を前後に並べて複合させた大規模な八幡造で、同形式の本殿の中では現存最古で最大規模であり、2016(平成28)年に国宝に指定された。 男山山上の本殿までは参道ケーブルが便利だ。高低差82メートルを所要時間3分で山上まで運んでくれる。このケーブルは、1926(大正15)年に男山索道によって開業したが、戦時中に廃止され、戦後の55(昭和30)年に京阪直営で復活したもので、路線距離0.4キロと僅かな距離だが貴重な路線だ。 石清水八幡宮は淀川に面する男山の北側や西側ではなく、東側に位置する。東側は木津川の扇状地で水はけがよく、農耕に適しており、創建された平安時代の初め頃には奈良街道が通る東方に開けていたのだろう。男山東麓には石清水八幡宮から高野山に向けて東高野街道も延びている。 三川合流地から木津川左岸を遡上すると、まず京阪本線のトラス橋が目に飛び込んでくる。広い河原に架かるトラス橋をガタゴトと走る京阪電車が軽快だ。河川沿いのサイクリングロードを先に進むと、京阪間の大動脈となる国道1号の木津川大橋と第二京阪道路の新木津川大橋が見えてくる。橋をくぐってしばらく行くと今度は華奢な木橋が現われる。欄干がなく橋桁がやたら多い上津屋橋である。 背割堤の御幸橋から約5キロ上流にあるこの橋は、橋長356.5メートル、幅3.3メートルの人道橋で、日本有数の木造橋だ。川が増水すると床板や橋桁が流れる構造となっていて「流れ橋」と呼ばれる。この場所にはかつて渡し舟があったが、1951(昭和26)年に渡しが廃止され、この橋が架けられた。明治中期の地図には、御幸橋から上津屋橋あたりにかけて、河川敷に船マークが幾つも記してあり、渡し舟は1箇所ではなかったようだ。 これほど長い木橋はめずらしく、テレビや映画のロケ地としても利用されている。また、最高級緑茶「玉露」の茶葉の栽培には砂地が向いていることから、流れ橋周辺の「上津屋」や久御山町「浜台」には、浜茶(はまちゃ)として良質な茶園が広がっており、茶畑の風情ある風景が「流れ橋と両岸上津屋・浜台の浜茶」として日本遺産「日本茶800年の歴史散歩」に認定されている。 桂川、宇治川、木津川が合流する三川合流域は、自然地形や歴史的経緯、人々の営みが積み重なり、様々な景観に巡り会うことができて奥深い。 |
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