木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2019/12/16

地域シリーズ : いろいろな『愛宕詣』

(※「愛宕詣2019」を再掲)

来年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」ですね。明智光秀ゆかりの地では様々なイベントが始まり,京都府と兵庫県,そして亀岡市・福知山市などの7市町が協力して大丹波観光推進委員会を組織し,「丹波 明智光秀/ゆかりの地マップ」などをつくって,光秀の足跡と魅力のキャンペーンを行っています。この中で京都市域では,光秀が本能寺へ向けて進軍した三つの道(明智越,唐櫃越,老の坂越)のほか,愛宕神社が紹介されていましたので,新年への祈願を兼ねて愛宕詣をレポートします。

《ご案内》

時は今 天が下しる 五月哉

1582(天正10)年5月,明智光秀が本能寺の織田信長を攻める前に,愛宕神社で連歌会(愛宕百韻)を催し詠んだ句であり,光秀の決意を秘めたものとされる。

この連歌会の開場となった愛宕神社へは,清滝口からの表参道のほか,水尾ルートや裏参道の樒原ルートなどがあり,今回は丹波側の樒原ルートで上ることにした。霧の中をJR八木駅からバスで越畑に向かい,終点の原バス停近くには大きな鳥居が立っていて,裏参道の入口がすぐ分かる。急な坂道を上り,少し開けたところからは山間を埋める雲海が見え,すがすがしい気分になった。

標高924mの愛宕山は比叡山より76m高く,京都市最高峰の霊山である。山頂途中には旧愛宕スキー場跡への案内標識があり,戦前にはホテルや愛宕山遊園地などとともに賑わっていたという。

愛宕神社は全国に約900社を数え,それらの本社が愛宕山上に鎮座する愛宕神社である。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ,「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた同社の火伏札は,家庭の台所や店の厨房などいろんなところに貼られていて,京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えない。

愛宕神社のHPによれば,同社は大宝年間(701704)に創祀し,早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く,9世紀頃には比叡山・比良山等とともに七高山の一つに数えられたという。境内には,比較的新しい本殿,奥の院などがあり,札所の向いには暖をとれる休憩所が用意されていて,登山者をもてなしている。

愛宕信仰は,愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から全国に広められ,中世後期以降,火伏せに霊験のある神として広く信仰されたという。民間では各地に「愛宕講」が組織されており,さまざまな愛宕ツアーが組まれたのだろう。特に,731日夜から81日早朝にかけて参拝すると千日分の火伏・防火の御利益があるといわれる千日通夜祭(通称「千日詣」)には,毎年数万人の参拝者で境内参道は埋め尽くされる。

愛宕山を下ると,表参道の途中には明治初めに19軒あったという茶店の跡の石垣が残っており,また参道脇にはたくさんのお地蔵さんが身ぎれいに設えられている。表参道の出発点となる清滝口(愛宕神社二の鳥居)を上ったところには,参道横に苔の生えた石畳が階段状に並んでいる。かつて,ここから愛宕山に向かってケーブルカーが出発していた。愛宕山鉄道が1929(昭和4)年に開設した清滝川-愛宕間のケーブルカーであり,同社は清滝駅から嵐山駅までの鉄道(平坦線)も開設し,比叡山と同様に,市街地から愛宕山まで鉄道とケーブルカーを使って上ることができた。開業当時は,山麓部の清滝遊園地とともに賑わったようだが,戦時中に全線が不要不急線に指定され,レールを軍に供出したことから,1944(昭和19)年に廃線となり,戦後も復活することはなかった。僅か15年の短命路線であった。

廃線跡は,道路として利用され,遺構として単線の清滝トンネルが残っている。昭和10年の都市計画基本図にはJR嵯峨野線をまたぐ鉄道の跨線橋が記されている。  続く

《フォト》

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2024/04/01

地域シリーズ  : 嵐山から『桂川上流』を行く

小倉山の亀山公園展望台から見る桂川は、山を切り裂くように流れる保津峡の景色ですが、ここからは嵐山中腹の千光寺もよく見えます。その下には川沿いに某ホテルが建ち、渡月橋近くからそこへ船で向かうなど、保津峡の風情を満喫しているように思えます。嵐山から桂川を上がっていくと保津峡の先は亀岡盆地ですが、更にその先は北に上がるのでしょうか、それとも東に行くのでしょうか。それでは、渡月橋から桂川の上流をじっくり巡ってみましょう。

《ご案内》

嵐山・渡月橋から西を見る桂川は、左に嵐山、正面に烏ヶ岳が迫り、右手には小高い小倉山が椀を伏せたように据わっている。山にはアカマツやヤマザクラ、イロハモミジ、ケヤキなど様々な樹木が育ち、四季折々に美しい景観を織りなしている。川の中ほどには帯状の白波が立ち、その向こうは川面が静かだ。保津峡を勢いよく下ってきた水が一ノ井堰で堰き止められ、平らな水面を保っている。ここでは保津川下り船や千光寺に向かう船、観光船などが行き交い、川中から嵐山を楽しむことができる。この井堰は灌漑用施設として、古くは5世紀末に設けられたといわれており、嵐山の水辺風景をつくる礎ともなっている。

桂川は古くから丹波と京都を結ぶ輸送路として重要な役割を果たしてきた。長岡京や平安京の造営時には丹波の良質な木材が筏を組んで運ばれたといい、13世紀に筏流しを専門とする筏師が現れ、室町時代末期には豊臣秀吉が筏師を保護して発展した。江戸時代になると1606(慶長11)年に角倉了以が私財を投じて保津川を開削し、木材のほか農作物などの物資が舟運で大量に運ばれるようになった。しかし舟運は、1899(明治32)年の京都鉄道(現JR山陰本線)開通やトラック輸送の出現により徐々に衰退し、現在は「保津川下り」として京都の貴重な観光資源となっている。

嵐山の中腹には、角倉了以が開削工事に関係した人々の菩提を弔うため造ったといわれる大悲閣(千光寺)が建っている。室内には木造の了以像が安置されており、観音堂からは保津峡を見下ろすことができる。

ところで、京都にとって欠かすことのできない桂川は、いったいどこから流れてくるのだろう。桂川は丹波高地の佐々里峠を源とし、左京区広河原から鞍馬街道沿いを南東に流れる。京都市と美山町との境にある佐々里峠には立派な石室があり、峠にたどり着いた旅人の疲れを癒してくれる。

つづら折りの峠道を京都方面に下っていくと、右手にスキー場が見えてくる。京都市内で唯一残る広河原スキー場だ。かつては大勢のスキー客で賑わったが、近年は雪不足で不定期開催となっている。このあたりで桂川は鞍馬街道と交わり、広河原から花脊へと流れていく。スキー場から約2キロ先の早稲谷川(わさだにがわ)との合流点は広河原の松上げ場となっていて、集落の祭りの場として整えられている。さらに京都方面に約6キロ行くと、山村都市交流の森近くの河川敷に花脊の松上げ場がある。谷あいを曲がりくねって流れる桂川の広い河原を利用し、周辺の道路や橋、田畑からよく見える場所に祭り場が設えられている。桂川上流では、川が集落の祈りの場所としても活用されているわけだ。

桂川は花脊大布施町で西に向きを変え、京北地域の集落をグルグル回って周山町に至る。そこで周山街道沿いを流れる弓削川と合流して宇津峡に入り、日吉ダムによってできた天若湖(あまわかこ)となる。日吉ダムは、洪水調節と利水等を目的に1998(平成10)年から運用開始された総貯水容量6,600万立方メートルのダム。これは天ヶ瀬ダムの2.5倍の貯水量に相当する。湖の名称は、水没した201世帯の地区名を採って「天若湖」と名付けられた。

日吉ダムを流下した桂川は、南に向きを変え亀岡盆地へ入っていく。この盆地はかつて大きな湖だったといわれており、川によって運ばれた上流の土砂がここに堆積し、まとまった盆地を形成した。

亀岡盆地は、最下流の保津峡部分が狭窄部を形成しているため、これまで幾度となく氾濫をくり返してきた。特に60(昭和35)年の台風16号では戦後最大の出水を記録し、JR亀岡駅周辺まで浸水するなど多くの被害をもたらした。このため 71(同46)年の「淀川水系工事実施基本計画」改訂で、桂川の治水対策は日吉ダムによる洪水調節と、保津峡開削を含む河道改修によることとされた。治水対策の大きな柱である日吉ダムは、基本計画(改訂)から27年後の98(平成10)年に完成し、治水安全度は飛躍的に向上したのである。

桂川は亀岡盆地を縦断し、南部の馬堀駅あたりで東に向きを変え、保津峡を流れて谷口部の嵐山・渡月橋に向かう。途中、落合橋で清滝川と合流し、勢いを増して保津峡を流れ落ち、嵐山に流れ着く。    (続く)

《フォト》