木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2024/06/03

文化都市施設  : 『渡月橋』と嵐山界隈(桂川中流)

嵐山の渡月橋は、その上流側と下流側で見え方が異なります。川の流れや背景が異なるからでしょうが、それだけではありません。橋自体も見える長さが違うのです。渡月橋は、桂川左岸から岸に直角に南を見た方向に対して、西に13度振っているからです。この橋は平安前期に造られましたが、火災や治水・利水のため改築や架け替えが行われてきました。しかし、なぜこの橋は川に垂直に架かっていないのでしょうか?その答えを探しに、春の渡月橋界隈を散策しましょう。

《ご案内》

桂川を亀岡から下り、激流の保津峡を経て嵐山・渡月橋につくと、眼前に京都盆地が広がる。桂川はここから平地をくねくねと蛇行する。

渡月橋を北から南に下ると、まず右京区を流れる西高瀬川の導水路を跨ぎ、桂川本流を越えて中之島へと渡る。そして、西京区に通じる渡月小橋へと続く。

渡月橋は、1934(昭和9)年に造られた鉄骨鉄筋コンクリート製の橋である。橋の中央を両端より約1メートル高くし、弓なりとなった幅員12.2メートル、全長155メートルの橋であり、木製であった旧橋の意匠を継承し、高欄は木造角格子式となっている。

この橋は、836(承知3)年に弘法大師の弟子で、法輪寺を興した・道昌(どうしょう)によって大堰川(現、桂川)の修築が行われ、その時架設されたのに始まるという。当時は、橋南にある法輪寺から「法輪寺橋」と称され、後に亀山上皇が東から西へ月が渡る様子を見て「渡月橋」と名付けたといわれる。往時の橋は現在地より100メートルほど上流にあったが、1606(慶長11)年に角倉了以が保津川開削工事において現在の場所に架け替えたようだ。現在の橋より約100メートル上流ということは一ノ井堰のあたりであり、5世紀末に設けられたという堰と橋との関係性を強く感じる。こうした河川改修の結果、現在の渡月橋が、桂川左岸から岸に直角に南を見た方向に対して西に13度振っているのだろう。

嵐山山腹にある法輪寺は、713(和銅6)年、行基がこの地に葛井寺(かづのいでら)を開創したのち、弘法大師の弟子・道昌が虚空蔵菩薩像を安置し、868(貞観10)年に法輪寺と称した。蛤御門の変(1864(元治元)年)で対岸の天龍寺に長州藩浪士が集結し、幕府軍との戦闘で法輪寺の建物は焼失したが、1884(明治17)年に本堂を再建し、客殿・玄関等を順次整え1914(大正3)年に往時を偲ぶ現在の寺観となった。

法輪寺は十三まいりの寺として知られる。平安初期、数え年13歳になった清和天皇が成人の証として法輪寺で勅願法要を催したのを端緒に、成人儀礼として虚空蔵菩薩に詣でて智恵を授かる十三まいりが行われるようになったという。現在も数え年13の男子、女子が智恵と福徳を授かる行事として行われており、法輪寺では十三まいりの際に、漢字一字を一字写経として虚空蔵に奉納している。

京都盆地に入った桂川は、河川敷がいろいろな公園として利用されている。渡月橋が架かる中之島は京都府の公園だ。嵐山公園中之島地区といい、マツやサクラが多く、特に花見の季節には多くの行楽客で賑わう。この公園には対岸の臨川寺地区や小倉山の亀山地区もあり、いずれもきれいに整備されている。渡月橋を下流にいくと、松尾橋にかけて右岸に嵐山東公園がある。上流部が散策広場、中流部は野球場が3面ある運動広場、下流部に児童広場が広がり、散策やジョギング、犬の散歩など地域の人もこの公園で楽しんでいる。

中之島東側に架かる中ノ島橋の南詰は、全長180キロに及ぶ京奈和自転車道のスタート地点だ。ここから桂川・宇治川・木津川の三川合流地点までの20キロが桂川サイクリングロードである。嵐山東公園の脇を通り桂川沿いを下っていくコースは、堤防敷の風を全身に受け、心も体も生き返る。  (続く)

《フォト》