木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2023/11/06

文化都市施設  : 『疏水分線』

琵琶湖疏水のルートを地図(下図参照)でたどってみると、大津市三保ヶ崎にある琵琶湖の取水口と蹴上とがほぼ同じ緯度にあり、疏水本線は蹴上から鴨川に向かって西に流れます。ところが蹴上で分かれる疏水分線は北に上がり、高野川を伏せ越して賀茂川まで流れます。京都で水が北に流れる唯一のものといわれますが、どうしてこのようなルートなのでしょうか。そこで疏水分線に沿ってその界わいを巡りましょう。

《ご案内》

琵琶湖疏水は、運輸、かんがい、動力源確保、飲料水確保を目的に、1885(明治18)年に起工し、第一疏水の夷川にある鴨川合流点までが90(同23)年に完成した。

疏水分線は、第一疏水建設当初、幹線水路として計画されたが、計画変更により規模を縮小し、沿線各地への水力利用、かんがい、防火用水等の供給を主目的として設けられた。第一疏水起工2年後の87(同20)年に着工し、90(同23)年に竣工している。蹴上で第一疏水から分岐し、北白川、下鴨を経て堀川に至る全長約8.4キロメートルの疏水であった。

琵琶湖の基準水位は、東京湾平均中等潮位から+84.371m(大阪湾の最低潮位から+85.614m)の高さとされている。つまり標高が84.4メートル程度ということになる。この水が第一疏水によって8.4キロ先の蹴上に運ばれ、疏水分線で分かれて北西方向に流れ、およそ7キロ先の賀茂川まで流れている。国土地理院地図によれば、最北になる洛北高校北側の疏水底の標高は65.2メートル程度だから、琵琶湖からおよそ15キロ離れた洛北の地までを僅か19メートル程度の高低差(6階建て程度の高さ)で運んでいるのだからすごい。まるで琵琶湖の水をスプーンですくって洛北の地まで大切に運んでいるかのようだ。

疏水分線の南禅寺北側から鹿ヶ谷に至る一帯は、分線と白川の落差を利用した水車動力による工場予定地として計画された。しかし、疏水の利用目的に水力発電が加えられ、水車動力による機械運転の必要性が薄まったため、南禅寺北側の工場地開発は白紙に戻され、別荘地が形成されていった。

南禅寺を北へ行くと、大文字山から鹿ヶ谷を西に流れ、疏水分線(哲学の道)を横切って白川に合流する桜谷川がある。この川の北には霊鑑寺があり、同寺の南側には日本の化学繊維市場のパイオニアの一人として知られる藤井彦四郎が贅を尽くし、粋を凝らして建てた「和中庵」がある。この建物は昭和初期に造った邸宅で、戦後に修道院へと受け継がれ、2008(平成20)年にノートルダム女学院中学高等学校に移管された。大文字山の山麓を切り拓いて造った和中庵は、敷地の高低差を巧みに利用し、山裾に広がる鹿ヶ谷の自然を生かした庭園を設え、渓谷の上段に建つ洋館や客殿と下段の茶室などが庭園とよく調和している。敷地内にかつてあった主屋は老朽化のため取り壊されたが、洋館、客殿、茶室、蔵は現存している。

疏水分線は、鹿ヶ谷から等高線をなぞるように東山の山裾を北に流れ、銀閣寺門前で西に向きを変え、吉田山北側で再び北に流れる。北白川のあたりは大正末から昭和初期にかけて形成された閑静な住宅地であり、志賀越道の北に京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センターが建っている。このセンターは、1930(昭和5)年に外務省東方文化学院京都研究所として建てられたRC造2階建ての建物。塔付2階建ての西棟と平屋建ての他棟が中庭を囲むロ字形に配置され、スパニッシュ・ミッション様式を基調に高密度のデザインが施されていて国の登録文化財である。

白川疏水通を北に上がれば、御蔭通の北方に、生物学者であった駒井卓博士の住宅・駒井家住宅が疏水に面して建っている。この建物はヴォーリズが設計し27(同2)年に建築された木造2階建て住宅で、当時アメリカで流行していたスパニッシュ様式を基調とした意匠になっており、昭和初期の洋風住宅として質が高く、保存状態もよいことから京都市指定有形文化財となっている。建物は(公財)日本ナショナルトラストが寄付を受けて修復し、2004(平成16)年から一般公開している。

疏水分線はこのあたりから流れを北西方向に変え、高野川を伏せ越し、円弧状の経路をとって賀茂川に流れ落ちる。琵琶湖からおよそ15キロの疏水の沿線には、大正・昭和の優れた建物があちこちに散らばっている。

《フォト》