木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2023/09/04

活かされる『番組小学校』④ ~松原橋を渡って元清水小学校へ~

前回紹介した元立誠小学校は、民間からの提案による跡地活用として、校舎の一部が保全・再生されました。敷地内には大型イベントが行える約840平方メートルの「立誠ひろば」ができ、広々とした緑の人工芝の上で、子供や大人が一緒になって遊んでいました。民間事業者による校舎の保存・活用はここだけではありません。清水寺近くの元清水小学校でも校舎の形状を活かした保存・再生がなされていましたので、木屋町通を下がり松原橋を渡って元清水小学校へ向かいました。

《ご案内》

立誠小学校は、明治10年に論語の“人に対して親切にして欺かないこと”を意味する言葉から命名された。1928(昭和3)年に竣工した現校舎は、かつて七之舟入と八之舟入に挟まれた土佐藩邸跡に建っている。93(平成5)年に学校としての約120年に及ぶ歴史の幕を閉じたが、その後も第二教育施設として使用され地域自治会の活動場所として利用された。

元立誠小跡地は、2011(平成23)年の学校跡地活用新方針に基づき、16(同28)年に事業者選定プロポーザルが開始された。募集条件は、文化的拠点を柱に、にぎわいを創出する事業で、建物の外観・内装等の主要な意匠を保全・再生すること、自治会活動スペースを整備することなどである。13件の応募の中からヒューリック㈱を選定し、20(令和2)年7月に「立誠ガーデン ヒューリック京都」がオープン。

用途は、複合施設(ホテル、文化施設、商業施設)と自治会活動スペース。活用方法として、①既存校舎は西側一部を除き建物を耐震改修して保全、②敷地西側に地下1階、地上8階建ての新築棟を整備し、その1階に文化事業を行う多目的スペースを整備、③敷地内に大型イベントが行えるオープンスペース(立誠ひろば)を整備、④図書館・駐輪場を整備している。跡地活用では早い段階から地元・京都市・事業者の三者が協議を行い、事業開始後も引き続き三者協議が行われている。高瀬川沿いの広々とした緑の人工芝の上で、子供と大人が一緒になって駆け回り、寝転ぶ姿が微笑ましい。

次に、元立誠小から木屋町通を下がり、松原橋を渡って元清水小に向かった。松原通は平安時代の五条大路で、清水寺の参詣道であったことから往来が多く、都の目抜き通りであった。ここに架かっていた橋が五条橋であり、通りの両側に松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれた。しかし豊臣秀吉が方広寺大仏殿造営に当たり,この橋を現在の五条通に架け替えたため、この地の橋の名前から「五条」がはずれ,松原橋と呼ばれるようになった。松原通を東に行くと大和大路界隈に弓矢町がある。この町内では祇園祭(前祭)のころ武者行列の甲冑を展示する「弓矢町武具飾」が行われる。祇園祭で武者行列として参列したが1974(昭和49)年の神幸祭を最後に途絶えたため、翌年から武具飾として町会所や町家などで甲冑が飾られるようになった。

東大路通を越えてさらに東に行くと、松原通の北側に元清水小が見えてくる。清水小学校は1869(明治2)年に下京27番組小学校として創設された。校地は毘沙門町の旧安井御殿跡地にあったが、学区の西端に位置し市電が走る東山通を横断して通学する児童の安全確保のため、1931(昭和6)年に校舎の移転改築を決定し2年後に現校地で新校舎が竣工した。

松原通に正門を置き、北に通路を通って校舎に至る。通路東側の校舎は、大階段のある中庭をコの字に囲むようにして2階建て(地下1階)の管理棟と3階建ての教室棟が建っている。敷地に大きな高低差があるが、各棟を大階段が巧みにつなぎ、しかも校庭が校舎の西側であるため校舎や大階段から市街地が一望できる配置となっている。校舎の外装は、スパニッシュの瓦庇を最上階に巡らせ、その上に寄棟屋根の塔屋をスパニッシュ瓦で葺くなど、南欧風の印象的なシルエットを構成している。

清水小は2011(平成23)年に閉校となったが、その後もクラブ活動や地元自治会の活動場所として利用された。元清水小跡地のプロポーザルは15(同27)年に開始された。募集条件は、ホテルまたはブライダルを主たる計画とする事業で、校舎は保存・再生すること、避難所を確保し、自治会活動スペースを整備すること、そして地域住民との連携などである。10件の応募の中からNTT都市開発㈱を選定し、20(令和2)年3月に「ザ・ホテル青龍 京都清水」がオープン。

用途は、宿泊施設(ホテル)と自治会活動スペース。活用方法として、①既存校舎を耐震改修、②既存校舎北側に宿泊棟を増築、③敷地西側にカフェ・レストラン棟を増築、④芝生広場を整備、⑤敷地の東側に自治会棟を整備しており、地元・京都市・事業者の三者協議が早い段階から行われ、事業開始後も三者協議が続けられている。東山丘陵の傾斜を利用し、旧校舎や大階段、芝生広場、カフェ・レストラン棟がなだらかに並び、見晴らしが良く落ち着いた空間が形成されている。

《フォト》

 

 

 

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2023/08/21

活かされる『番組小学校』③ ~姉小路通を通って元立誠小学校へ~

1869(明治2)年に開校した番組小学校は64校ありました。しかし都心部の人口流出や少子・高齢化による児童・生徒数の減少に伴い小中学校の統合が行われ、閉校施設が多数生み出されました。そこで京都市は、小学校跡地の活用についての方針をまとめ、市の事業として活用を進めました。元明倫小や元龍池小は校舎を保存活用した事例ですが、市の事業だけでは活用が進まなくなり、近年、民間事業による活用もスタートしました。その一つの元立誠小学校に向かいましたのでご覧下さい。

《ご案内》

京都市の番組小学校の保存活用については、これまでに①元明倫小学校(京都芸術センター)と②元龍池小学校(京都国際マンガミュージアム)を紹介したが、1990年代から始まる学校跡地の活用について簡単にまとめておこう。

京都市の人口は、19902020年の30年間で、146.1万人から145.8万人へと3千人が減少したが、7~12歳人口に限れば9.6万人から6.6万人へと3万人も急減した。このような児童・生徒数の減少に伴い小中学校の統合が行われ、閉校施設が多数生み出された。

学校跡地は小学校としての役割を終えたとはいえ、今もなお地域住民の「自治活動拠点」であり、地域の「防災拠点」としての役割を担っている。しかし施設は老朽化していくが改修が難しい状況にもあった。そこで京都市は、1994(平成6)年に「都心部における小学校跡地の活用についての基本方針」(旧方針)を定めた。その考え方は、(1)原則として京都市の事業としての活用を行う、(2)地域コミュニティに配慮した活用を行うということであり、旧方針の下で、元明倫小や元龍池小をはじめ、元成逸小、元小川、元梅屋小、元竹間小、元本能小、元開智小、元修徳小、元菊浜小の活用が進められた。このほか元滋野小、元初音小、元永松小が教育施設などに利用された。

その後、京都市の財政難もあって学校跡地の活用が進展せず、一方で少子化等が進み学校統合がさらに進展したことから、京都市は2011(平成23)年に「学校跡地活用の今後の進め方の方針」を定め、京都市事業に加え、公共的・公益的団体による事業や民間事業による活用も可能とした。そして翌年「京都市資産有効活用基本方針」(新方針)を定め、長期にわたり敷地を全面的に活用する事業を対象に民間等事業者からの募集提案を開始した。

この活用に当たっては、(1)土地は売却せずに貸付け、(2)地域住民の自治活動・防災拠点を確保、(3)京都市の課題を解決、(4)活用後も地域住民・京都市・民間等事業者の三者による協議を継続することとした。

新方針の下で、元弥栄小(漢字ミュージアム)、元貞教小(京都美術工芸大学 京都東山キャンパス)、元清水小(ザ・ホテル青龍 京都清水)、元立誠小(立誠ガーデン ヒューリック京都)などが活用されていったのである。(※)

そこで、元龍池小学校(京都国際マンガミュージアム)から姉小路通を東に行き、木屋町通を南に下って高瀬川西岸の元立誠小学校に行った。姉小路通は、京都の近代化の象徴である三条通と戦後に拡幅整備された御池通に挟まれた幅員67メートル程度の小路だ。烏丸交差点には、1926(大正15)年竣工の旧京都中央電話局を保存活用した新風館が建っている。日本近代建築のパイオニア吉田鉄郎が設計し、烏丸通に面して連続したアーチが特徴の旧京都中央電話局は、京都市の登録文化財として烏丸通の風格を一段と高めている。烏丸通の東から寺町通の西までの「姉小路界隈」では、バブル期の高層マンション建設を契機に、住まいと生業が共存する行儀よく品格あるまちをめざしたまちづくりが取り組まれてきた。その結果、風俗営業などの用途を制限する地区計画や建築物の高さを18メートルまでとする建築協定を定め、さらに京都市から地域景観づくり計画書の認定を受けて良好な景観づくりを進めており、職住が共存するヒューマンスケールの町並みとなっている。

姉小路通は寺町通で少し南にずれた後、高瀬川東岸まで続き、そこから南に約400メートル下ると元立誠小学校だ。下京第6番組小学校として1869(明治2)年に開校した同校は、当初河原町通の西側にあったが、1924(大正13)年の新京極の大火で校舎が類焼し、河原町通の拡幅で敷地が大幅に削られ校地として立ちゆかなくなることなどから現在地への移転を決定し、4年後の28(昭和3)年に鉄筋コンクリート造3階建て新校舎が竣工した。ロマネスク様式の校舎には「左右対称」「バルコニーや飾り模様」「アーチ使用」など美学的な観点も取り入れたモダンな造りとなっていて、普通教室のほか理科室・地歴室などの特別教室9室と雨天体操場を備え、校内には京都市内で初めての校地内プールも造られた。

(続く)

参考:「京都市における公民連携による公共建築の活用」(松田彰)スライド524

https://kikod.club/sympo2023.pdf

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2023/05/01

活かされる『番組小学校』② ~元龍池小学校(京都国際マンガミュージアム)~

番組小学校は、明治政府の学制発布に先立つ明治21869)年に、地域住民の力で創設された小学校です。この歴史ある都心部の小学校も、人口減少や少子化による児童数の減少により統廃合が進み、跡地活用が進められています。このような中、旧校舎を保存活用し、文化芸術の拠点やホテルなどに利用されるケースが近年話題となってきましたので、前回の元明倫小学校に続き、今回は京都国際マンガミュージアムとなっている元龍池小学校を訪ねましたのでご覧下さい。

《ご案内》

番組小学校2回目は、元明倫小から北約700メートルのところにある元龍池小に、室町通を通って向かった。室町通沿道には祇園祭の鯉山保存会、黒主山保存会、役行者山保存会が続き、誉田屋源兵衛をはじめとする大規模町家も残っている。御池通で東に折れ、両替町通を上がって元龍池小学校に行った。

御池通は近代まで三条坊門小路という狭い道路だったが、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、空襲による類焼防止策として鴨川から堀川通までの沿道が建物強制疎開地となり、戦後も空地のままであった。47(同22)年御池通を幅員50メートルの都市計画道路とすることが決まり、事業完了後、市内幹線道路として沿道に高層建築物が建ち並んでいった。

平成になって地下鉄東西線の建設が進む中、97(平成9)年の東西線開通や御池地下街・地下駐車場の開業を前に、上を走る御池通を主要な公共空間として整えるため、鴨川から堀川通までの1.74キロを「シンボルロード整備事業」として整備する街路事業が始まった。約49億円を投じ2003(同15)年に完成した御池シンボルロードは、車道幅26m、北と南の歩道がそれぞれ幅12mもあり、けやき並木の中をゆったりと歩ける公共空間となった。

御池通南側歩道を東に行くと、烏丸交差点手前に白いガラスブロックの清楚な公衆トイレがある。シンボルロード事業で造られたもので、公募で「龍珠軒」(「トワレ・リュージュ」と読む)の愛称がついた。烏丸交差点から北西方向を見ると、ビルの向こうに元龍池小学校がよく見える。明治安田生命京都ビルの東側部分が低層になっているからだ。このビルを建設するとき、地元住民は龍池小学校の校庭にビル陰を落とさないでほしいと要請し、会社側もそれを受け入れ9階建ビルの東側部分を2階建てにしたのだという。

龍池小学校は、1869(明治2)年に上京25番組小学校として創設された。校舎は町内各戸からの寄付金2000両だけで建設。当初の敷地は御池通両替町通北西角で、御池通を正面とし木造2階建と平屋建の2棟であったが、児童数が増加し76(同9)年2月に校地北側の両替町通に面した旧銀座跡地に移転。現校舎の一角には、両替町通に面して「此附近徳川時代銀座遺址」の石碑が立っている。同年11月には北側官地を無償で下付され拡張地としており、龍池校は明治前期においてすでに間口・奥行ともに広く、方形に近い1200坪余の校地を確保し現在に至っている。

大正末期から新たな校舎の改築計画が進められ、京都市営繕課の設計により1928(昭和3)年に北西側の講堂・体育館のある校舎、翌年に本館、37(同12)年に北校舎が竣工した。本館は、両替町通に面するRC造2階建。正面中央に玄関を設け、南と北に翼棟をつけたH形平面。玄関に庇を付け上部の窓にアール・デコ風の額縁と方立をもち、西面窓を細長く仕切って垂直性を強調するなど、簡潔だが特色のある外観。北校舎は、旧講堂棟の東に位置するRC造3階建。外壁の各柱間には縦長の窓を3つずつ配し、垂直性を強調した外観。旧講堂棟は、RC造2階建で、1階が屋内体操場、2階が講堂。1階がアーチ窓、2階が縦長の方形窓で、窓間にアール・デコ意匠の方立と柱形でリズム感のある外観。いずれの建物も2006(平成18)年に改修され現在に至る。

元龍池小学校を保存活用し、本館、北館、講堂・体育館をつなげる形でリノベーションしてできたのが京都国際マンガミュージアム。マンガ資料の収集・保管・公開、マンガ文化に関する調査研究、そして展示やイベント等の事業を行うことを目的に、京都市と京都精華大学の共同で行うこのミュージアムは、マンガ資料として約30万点を保存。江戸期の戯画浮世絵から明治・大正・昭和初期の雑誌、戦後の貸本から現在の人気作品、海外のものまで取りそろえ、博物館的機能と図書館的機能を併せ持った新しい文化施設となった。

このミュージアムが元龍池小学校にできるまでには紆余曲折があった。小学校閉校前の1994(平成6)年、京都市都心部小学校跡地活用審議会での検討の結果、ここには延床面積15000平方メートルの大規模な新中央図書館の移転が内定していた。しかし市の財政難により移転計画は宙に浮いたままに。しかも「地元の自治連合会の了解を取り付ける」「売却しない」という大原則があり、京都市として独断で決められなかった。

このような中、京都精華大学がマンガ学部新設にあたり、収集してきたマンガの収蔵庫として閉校小学校を借りたいと2003(同15)年に市に打診があり協議が始まった。当初、収蔵庫だけでは認められないと難色を示すなか大学がそれに対応し、3年半後の06(同18)年11月に京都国際マンガミュージアムの開館に至った。建物改修費は12億円、うち市の負担はミュージアムと自治連活動の面積比率から1200万円、残りは大学の負担といい、館内の国際マンガ研究センターは文部科学省のオープン・リサーチ・センター事業に採択された。

こうしてできたミュージアムは、元龍池小学校の校舎を活用し当時の佇まいを残すことで、長年地域のシンボルであった小学校の役割を引き継いでいるともいえ、漫画愛好家だけでなく観光客や市民からも愛される施設となっている。

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2023/04/03

活かされる『番組小学校』① ~元明倫小学校(京都芸術センター)~

京都市都心部の小学校が保存活用され、ホテルや地域施設として利用されている事例が注目されています。元清水小学校と元立誠小学校です。これらの小学校は『番組小学校』と呼ばれ、教育機関であるだけでなく町会所や行政の出先機関でもあったので、地域住民にとって愛着があるばかりか、地域自治に欠かせない存在でした。そこで、「活かされる『番組小学校』」と題して、旧校舎を保存活用している場所を訪ね歩きます。初回は元明倫小学校です。

《ご案内》

京都市都心部の小学校は、明治政府による学制発布(明治5年)の3年前、1869(同2)年に64校の番組小学校として誕生した。これは、江戸時代まで続いた地域の自治組織「町組」が明治になって65の町組に改正され、町組ごとに小学校と町組会所を併設する施設の建設が進められた結果、64の町組会所兼小学校が日本で最初に発足したもので、上京第○番組小学校などと称したことから、番組小学校と呼ばれている。その後小学校に漢字の名称がつけられ、それにともない学区も漢字の名称になっていった。

このように番組小学校は、単に教育機関であるだけでなく、町会所や府の出先機関でもあった。交番や望火楼を設置し、ごみ処理や予防接種などの保健所の仕事も行っていて、いわば総合庁舎としての機能を果していた。しかも、その経費は町組が負担していたので、都心部の住民にとって各学区の小学校への思いはひときわ強い。

明倫小学校は、1789(寛政元)年に建設された心学道場「明倫舎」の建物を校舎とし、1869(明治2)年11月に下京3番組小学校として創設された。その場所は現敷地の東側最奧部分(敷地250坪)であり、錦小路通に正門を置き細い路地で校舎に通じていた。この正門の跡は現在も残っている。校地の確保には大変苦労されている。開校6年後、西側土地493坪を購入して正門を室町通側に移し、正門両脇に教室2棟を新築。その後も本館及び講堂の新築や雨天体操場等の増築が行われ、1901(同34)年には北側奥部分に225坪の校地拡張を行い、校舎の増改築が行われた。さらに27(昭和2)年に校地が210坪拡張され、現在の旧校地の形状に至った。

現存する旧校舎は、昭和天皇御大典事業として全校舎の改築が断行されたものだ。建設資金は、学区民の寄付40万円と積立金約18万円の総額58万余りで挙行され、京都市営繕課の設計で30(同5)年1月着工、翌年10月に全校舎が竣工した。室町通に面してRC造2階建ての本館、その奧にRC造3階建ての教室棟2棟が建つ。本館は、軒廻りの庇にスパニッシュ風の瓦屋根を載せ、西面2階のバルコニーが外観を特徴づけている。本館1階は西側に校長室や職員室などが並び、その奧に雨天体操場が設けられ、2階には畳敷き(78畳敷)で純和風書院造りの集会室と講堂が配置された。本館と北教室棟とは渡り廊下で繋がり、そこにスロープも設けられている。

しかし、都心部のドーナツ化現象の進行と少子化の影響で児童数が急激に減少し、明倫小学校は1993(平成5)年に124年の歴史をもって閉校した。そして明倫小学校の旧校舎を保存活用して誕生したのが「京都芸術センター」である。同センターを明倫小学校の跡地に創設するまでには、2つの重要な取組があった。一つは、京都市の中核的な行政課題として芸術文化を位置付け、その振興の推進力となる拠点づくりを進める取組であり、もう一つは、番組小学校の中でも市中心部に位置する明倫小学校の跡地に、同センターを設置することの市民理解を得る取組である。

前者について京都市は、東京一極集中や各都市の文化振興への積極的な取組等から、京都の文化想像力・発信力の相対的な地位の低下に強い危機意識を持ち、96(同8)年に「京都市芸術文化振興計画―文化首都の中核をめざしてー」を策定し、計画実現のため京都の芸術文化振興の推進力となる中核的な拠点(「京都アートセンター」(仮称))を設置する必要があるとした。

後者については、小学校閉校後の跡地活用策を検討するため、94(同6)年に都心部小学校跡地活用審議会が設置され、2年後答申がまとめられたが、その審議中の95(同7)年に、市中心部の小学校跡地3か所(明倫小、龍池小、春日小)が第5回「芸術祭典・京」の会場として初めて選ばれ、元明倫小学校では音楽・舞踏部門とプレイベントが催された。明倫小学校跡地を芸術表現の場とする試みは、95年・96年の芸術祭典・京に続き、97年の「アートオークション京都97」でも実施された。こうして若い芸術家たちの活動が地域住民に理解され、京都芸術センターの場所が元明倫小学校に決まっていったのである。校地に残る旧校舎は全面的に保存活用されることとなり、99年に耐震補強・エレベーター設置等の改修工事が行われ、2000(同12)年4月京都芸術センターがオープンした。そして、元明倫小学校は08(同20)年に国の登録有形文化財となった。

明倫学区には祇園祭の山鉾が14基もある。明倫小学校の周囲では、前祭のときに南側の錦小路通で占出山、西側の室町通で山伏山が据えられ、後祭のときには北側の蛸薬師通で橋弁慶山が据えられる。祇園祭が行われる7月中はこの番組小学校の周囲で賑やかに祭行事が繰り広げられたわけだ。

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