京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2025/4/7 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 法界寺『裸踊り』と日野界隈 「meetus(ミータス)山科-醍醐」をご存知でしょうか。山科-醍醐の魅力を最大限活かし、あらゆる世代がワクワクする地域としていくため、京都市が取り組むプロジェクトです。今年3月に策定されたプランには、石田駅周辺の具体策として「東部クリーンセンター跡地を学び・交流・憩いの場へ!」が挙がっています。石田駅周辺には国宝の法界寺阿弥陀堂があり、そこでは1月14日の夜に『裸踊り』が行われますので、この行事を見に日野界隈を巡りましょう。 |
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《ご案内》 「頂礼(ちょうらい)、頂礼」、「頂礼、頂礼」。勇ましいかけ声が夜寒の境内に鳴り響いた。 1月14日は法界寺裸踊り。江戸時代中期に始まったとされる寒中行事で、五穀豊穣や無病息災を願う「修正会」が元日から営まれ、最終日の14日に締めくくりの「結願法要」の一環で、住民が踊りを奉納する。 午後7時20分、結願法要開始。阿弥陀堂に集まった男児たちが褌姿となって元気いっぱい裸踊りを披露した。8時15分、井戸水で水垢離(みずごり)をした褌姿の男たちが、阿弥陀堂広縁で裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く打ち合わせて「頂礼、頂礼」と連呼し、祈願をこめて裸踊りを踊った。その勇壮な姿に参拝者から拍手歓声が上がり、境内は熱気に包まれた。8時40分、裸踊りが終了し、結願法要は成満した。 今年(2025年)の裸踊りは、地元の成人男性7人と男児6人が参加した。4年ぶりとなった昨年は、大人が10人、子ども4人であった。公開されている「京都の歴史と文化 映像ライブラリー」(※1)には1999(平成11)年1月の様子が記録されており、二十人前後の大人と数十人の子どもが入れ替わり立ち替わり、体をぶつけあって激しく踊っている。二十数年の間に出演者が激減し、後継者育成が大きな課題となっている。 法界寺は藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、本尊は薬師如来。地元では「日野のお薬師さん」と呼ばれ、日野薬師または乳薬師として親しまれてきた。822(弘仁13)年、藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像をお祀りし、1051(永承6)年、日野資業が薬師如来像を造ってその小像を胎内に収め、薬師堂を建立して寺としたという。 国宝の阿弥陀堂は、建立年代について明らかでないが、様式上鎌倉前期の建立とみられている。方五間、宝形造、檜皮葺で裳階を備えた方形平面。内陣は方一間で中央に仏壇を置き、丈六の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置する。柱や天井、小壁には天人などの文様を描く。この堂は全体の調子が非常に清潔で、かつ大らかな趣があり、同じ浄土形式仏堂でも平等院鳳凰堂などと趣が異なっている。 法界寺の北東には萱尾神社が建っている。日野村の産土神として崇敬を集め,江戸時代までは法界寺の鎮守社でもあった。現在の本殿は,1652(慶安5)年に再建された一間社流造の建物(京都市指定有形文化財)で,全体に丹塗り,胡粉塗,極彩色が施されている。本殿正面には、中央部分が丸くその下に立像が彫られたキリシタン灯籠があり、「マリア観音」と口伝えられている。 萱尾神社から東に山道を登っていくと、鎌倉時代の歌人鴨長明(1153?~1216)が草庵を築いたと伝わる巨石の下に、長明方丈石という碑が立っている。後鳥羽上皇に才を認められながらも俗世での望みが断たれ、出家した長明は、1211(建暦元)年、都から東山を隔て戦乱等の被害に遭うことが少なかった日野に隠棲し、都で相次いだ大火や天災を、無常観を基調に『方丈記』に綴ったのである。 法界寺から最寄駅の地下鉄石田駅に戻ると、駅南西方面に天穂日命神社がある。1783(天明3)年に造営された現在の本殿は、身舎(もや)正面の柱間が2間という、京都市内にはほとんど例のない二間社流造形式の建物である。境内は万葉集などで和歌の名所として知られた「石田の杜(いわたのもり)」に比定されており、外環状線に並ぶロードサイド店の奧で、杜と社殿が佇んでいた。 |
《フォト》 (※1)京都の歴史と文化 映像ライブラリー「日野裸踊」《(公財)京都市文化観光資源保護財団》【https://www.kyobunka.or.jp/library/events/181.php】 ・製作年月:平成15年度(2003)[平成11年(1999)1月撮影] ・製作:京都市(企画)・松竹京都映画株式会社 |
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