木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2024/03/04

シリーズ《生き続ける文化財》 : 世界遺産『天龍寺』と小倉山

2023年度京都・観光文化検定試験に、「西芳寺や天龍寺の庭園を手掛け、枯山水や石組を使った庭園の発展に大きな影響を与えた僧侶は誰か。」という問題(3級)がありました。選択肢は、()古嶽宗亘 ()無関普門 ()夢窓疎石 ()雪江宗深です。いずれの僧侶も京都に関わりのある人たちですので、その答えを見つけに世界遺産『天龍寺』に向かいましょう。あわせて、天龍寺の裏山の小倉山にも登り、京都の町を西から眺めましょう。

《ご案内》

天龍寺は、後嵯峨天皇の亀山離宮があったところに、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、1339(暦応2)年に夢窓国師を開山として創建した禅寺である。同寺造営のため元冦以来途絶えていた元との貿易を再開し、その利益を造営費用に充てた。これが歴史の教科書に出てくる「天龍寺船」である。天龍寺の建立は、幕府による海外貿易の大きな転換点になったわけだ。

天龍寺は、度重なる火災に見舞われた。特に文安の火災(1447年)と応仁の乱による被害(1468年)が大きく、復興には豊臣秀吉の寄進を待たなければならなかったという。また、蛤御門の変(1864年)では天龍寺が長州軍の陣営となり、薩摩軍が長州残党狩りのため寺に火をかけ、伽藍は焼失してしまった。しかし天龍寺は復興を続けた。1899(明治32)年に法堂・大方丈・庫裏完成、1924(大正13)年に小方丈(書院)再建、34(昭和9)年に多宝殿の再建などにより、ほぼ現在の寺観になった。

天龍寺の特徴を、世界遺産「古都京都の文化財」は次のように紹介している。「三門、仏殿、法堂、方丈を一直線上に並べ、方丈の裏に庭園を造った典型的な禅宗寺院の地割であり、方丈庭園は自然の地形を大きな築山に見立てて作られている。8度の兵火により主要伽藍は失われたが、夢窓疎石が作庭に携わった天龍寺庭園が残り、特別名勝に指定されている。滝組竜門瀑、石橋、岩島といった石組を立てたダイナミックでしかも繊細な趣の池庭であり、方丈からの眺めを重視した構成や石組の手法は室町時代以降発展する枯山水庭園に影響を与えている。」

天龍寺庭園は「曹源池庭園(そうげんちていえん)」と呼ばれ、その背後は嵐山公園亀山地区(通称「亀山公園」)である。亀山とは小倉山のこと。山のかたちが亀のかたちなので亀山と呼ばれる。小倉百人一首をまとめたとされる時雨亭はこの山の東麓であり、公園内には歌碑が多数ある。亀山公園から約1.5キロ北西に登ると頂上(標高296メートル)に至る。

小倉山山頂からは、京都盆地西側の嵯峨野や太秦、そして双ヶ岡がよく見える。大文字山から見える吉田山や御所など京都盆地東側の景色とは対照的だ。平安京北端の一条大路は、双ヶ岡と吉田山を結んだ線上に設けられたとする説があるが、地上から見る場合はこの2点だけでは線が定まらない。衛星写真を見ると小倉山、双ヶ岡、吉田山、大文字山が東西方向に直線状に並んでいて、小倉山と双ヶ岡を見通して線を引くと一条大路ができあがる。

小倉山と嵐山との間には山を裂くように桂川が流れる。保津峡だ。亀山公園の展望台に登ればその渓谷美を見渡すことができる。

桂川上流の北山山地は、京都府中央部から兵庫県東部にまたがる丹波高地の一部で、東は高野川に沿って南北に走る花折断層により比叡山地と区切られる。京都市南西部の桂川右岸側に広がる山地も丹波高地の一部である。京都盆地は東縁に花折断層帯(花折断層や桃山断層)、西縁に京都西山断層帯(樫原断層や西山断層)があり、それら活断層の活動によって形成された陥没盆地だ。小倉山の西と南を流れる桂川は、保津峡より上流ですでに土砂を堆積させているため谷口部には明瞭な扇状地は形成されていない。谷口部を出た渡月橋あたりからは緩やかな地形となり、蛇行しながら南に流れる。

山麓で百人一首をまとめたとされる小倉山だが、そこに登れば、京都の地形に思いを馳せ、平安京造営の様子が偲ばれる。

《フォト》