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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
153 |
2026/1/5 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 延暦寺から『日吉大社』へ 比叡山には2つのケーブルカーが走っていますが、日本最初のケーブルカーをご存じでしょうか。生駒ケーブルの宝山寺線で、1918(大正7)年の開業です。この頃から都市近郊の霊山でケーブルカーの敷設が盛んに進められ、叡山ケーブルは1925(大正14)年、坂本ケーブルは1927(昭和2)年に開業しました。これにより比叡山は多くの参詣者に開かれた場所となって行きました。そこで今回は、比叡山からケーブルカーに乗って坂本に向かい、山麓の『日吉大社』を巡りましょう。 |
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《ご案内》 「一山に立て籠っている」と言われた比叡山延暦寺が広く参詣者を受け入れる契機になったのは、1921(大正10)年の伝教大師(最澄)一千百年大遠忌であった。 延暦寺は古くから修行の山としての性格が強く、参詣者に対する関心は高くなかった。しかし大正後期ごろから、その姿勢が延暦寺や天台宗内で問題視され、思想の喧伝や参詣者の受け入れ、延暦寺への移動手段の改善が求められるようになった。その背景には、近代以降の寺社参詣が鉄道網の整備によって徒歩から鉄道へと変化し、都市近郊の霊山では、大正中期以降ケーブルカーの敷設が盛んに進められたという事情がある。 天台宗は大遠忌を教団再興の重要な契機と位置づけ、遠忌前年までの3年間で延べ240日以上に亘って全国各教区への巡錫(じゅんしゃく)(伝道)が行われ、延暦寺では記念事業として浄土院、大講堂などの堂塔改修や、主要参道の整備が行われた。また地方団参者の募集では、参拝団の移動手段に高い関心が寄せられ、鉄道や汽船を活用した輸送対策が実施された。その結果、大津と坂本を結ぶ江若鉄道の路線(三井寺下―叡山間)が遠忌法要の前日に開業した。 大遠忌が盛況裡に終わり、天台宗は報恩伝道をさらに5年間継続することとし、延暦寺では信者に対する本山参詣の勧誘を強く意識するようになった。しかし移動手段は江若鉄道と汽船のみであったため、利便性向上を図るための新規鉄道敷設に向けた動きをみせた。 京都方面では、叡山電気鉄道が出町柳―八瀬間の平坦線と八瀬―四明ヶ嶽間のケーブル線の免許を1922年に取得し、1925年9月に平坦線、同年12月にケーブル線が開業した。 坂本方面では、1919年ごろからケーブルカーの計画が進められ、比叡登山鉄道株式会社が坂本―叡山中堂間の免許を1924年に取得し、坂本からのケーブルカーが1927年3月に開業した。また同年9月には琵琶湖鉄道汽船が坂本駅-石山駅間を全通している。 こうして比叡山観光が活況を呈していったのである。 延暦寺へは叡山ケーブルに乗ったので、帰りは坂本ケーブルで下山した。全長2キロの坂本ケーブルは現役で日本最長のケーブルカー。両端の駅舎は国の登録有形文化財だ。ケーブル坂本駅の北には40ヘクタールもの広大な境内を有する日吉大社が鎮座する。 日吉大社は、崇神天皇の頃に創祀されたといい、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮である。日枝山(比叡山)の大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀り《東本宮》、その後大津京遷都のとき大和国から大己貴神(おおなむちのかみ)を移し《西本宮》、ともに祭神とした。平安時代には宇佐・白山・牛尾・三宮・樹下の神々も祀り「山王七社」と称した。境内には約40の社があり、それらを総称して「日吉大神」と呼ぶ。 社殿は信長の焼き討ちで焼失したが、その後復興し、西本宮本殿が1586(天正14)年、東本宮本殿が1595(文禄4)年に再建された(国宝)。両本殿は、切妻造の母屋の前面と両側面に庇をめぐらすという特殊な形で「日吉造(ひえづくり)」呼ばれる。床下にはかつて仏事を営んだ「下殿」と呼ばれる部屋があり、神仏習合の特殊形態として興味深い。 西本宮に向って参道を進み、大宮橋を渡ると山王鳥居が建っている。この鳥居は笠木の上に、山に見立てた合掌形の木を載せている。日吉大社が延暦寺の鎮守社であるところから神仏習合の象徴ともいわれ、他に類を見ないものだ。大宮橋は境内を流れる大宮川に架かる石橋で、走井橋・二宮橋とともに「日吉三橋」と呼ばれる重文だ。 東本宮の楼門を入ると、樹下神社の本殿が左手に、拝殿が右手に建っている。本殿と拝殿を結ぶ線が、東本宮と樹下神社で直交するという珍しい位置関係にある。 日吉大社の信仰の始まりとなった神体山八王子山の頂上付近には、三宮神社と牛尾神社の本殿・拝殿が並んで建っている。山上という地形に制約され、三間社流造の本殿に、懸造の拝殿が本殿正面縁を取り込むようにして建てられている。 境内には神格化された比叡山の猿もいて「神猿(まさる)」と呼ばれる。西本宮楼門の四隅の軒下には屋根を支える木像の「棟持ち猿」もいる。神猿は魔除けの象徴として祀られ、「魔が去る、何よりも勝る」に因んで大切にされてきた。 比叡山の麓に鎮座する日吉大社にはたくさんの物語が詰まっていた。 |
《フォト》
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
152 |
2025/12/1 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 世界遺産『延暦寺』と比叡山 稲荷山から北に連なる東山三十六峰は、北端が比叡山といわれます。比叡山は平安京の鬼門に位置し、平安京遷都にあたり、桓武天皇は一乗止観院で鬼神鎮めの法要を営みました。その場所は比叡山延暦寺の根本中道です。延暦寺は比叡山中に100を超える堂舎を築き、後に法然、栄西、親鸞、道元、日蓮ら日本の仏教各派の始祖となった高僧を世に送り出した修行の寺です。そこで秋の比叡山に上り、東塔、西塔、横川の順に高低差が激しい延暦寺の境内を巡り歩きましょう。 |
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《ご案内》 平安京の鬼門に位置する比叡山は、標高848メートルの霊山である。この山を学問と修行の場としたのが延暦寺である。 延暦寺は、最澄が785(延暦4)年比叡山中に草庵を結び3年後に一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創建したことにはじまる。このとき自刻の薬師如来像を安置し灯明を点じた。この灯は今日まで続き”不滅の法灯“と呼ばれる。 794(延暦13)年の平安京遷都にあたり、鬼門に聳える比叡山の鬼神鎮めの法要が一乗止観院で盛大に営まれた。桓武天皇という最大の外護者を得た最澄は、31歳の若さで朝廷の内供奉(ないぐぶ)に任ぜられ、一乗止観院も官寺に準じる待遇を受けた。804(延暦23)年から1年間、最澄は唐に渡って天台教学を学び、禅の教えや密教の伝法を受けて、円蜜一致といわれる日本天台宗の基礎をつくりあげた。帰国後の806(大同元)年、朝廷から天台宗に年分度者(国家公認の僧の資格)が割り当てられ、天台宗が正式に公認された。最澄は822(弘仁13)年6月4日に遷化したが、その7日後悲願であった比叡山独自の大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立が勅許され、比叡山の日本天台宗が名実ともに根をおろした。 こうして延暦寺は平安京の鬼門を護る王城鎮護の寺として崇敬され、平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学び、後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのである。 延暦寺の堂舎は、10世紀後期には現在のように東塔、西塔、横川の3地域を中心に整備され、隆盛を築いていた。その後火災のたびに再建が繰り返され、特に1571(元亀2)年の信長による焼き討ちにより、峰の西側に建つ瑠璃堂、相輪橖を除く全てが焼失したが、秀吉や家康の援助で堂塔の再整備が進んでいった。 総本堂である根本中堂は、徳川三代将軍家光により1640(寛永17)年に再建されたもので、桁行11間・梁間6間の規模は平安時代以来のもの。須弥壇のある内陣は、参拝者の目の高さに合わせるため、中陣・外陣より一段低い土間となっており、天台宗の仏堂の特色をよく示している。根本中道の前面には中庭を囲んで凹字形に廻廊が設けられている。この廻廊は1642(寛永19)年に完成したもので、柱を三列にならべ、内側を床敷、外側を石敷とする。屋根は根本中堂が瓦棒銅板葺に改められたが、廻廊は当初のとち葺のままである。根本中道は2016(平成28)年から大改修が行われているが、改修現場を間近に見ることができる。 西塔の中心となる転法輪堂は山内最古の1347(貞和3)年頃の建物で、「釈迦堂」とも呼ばれる。信長の焼き討ち後、園城寺(三井寺)の弥勒堂(金堂)を1595(文禄4)年に移築したもの。前方2間の外陣の床は板張とし、内陣は一段低い土間となっており、天台宗本堂の基本的平面構成となっている。 転法輪堂の南側に建つ2つのお堂が常行堂と法華堂。それぞれ5間四方の建物で、背面出入口を除いて左右対称に造られ、法華三昧、常行三昧の修行の堂である。渡り廊下をにない棒に見立て、両堂を合わせて「にない堂」と呼んでいる。 比叡山を修業の場とする延暦寺は、比叡山中に1,700haもの広大な境内を有する。これは京都市中心部の上・中・下京区を合わせた面積の8割に相当する。うち97%は山林であるが、明治維新で領地が大きく揺れた。新政府による社寺領上知令(明治4年)と地租改正(明治6年)により、山林1,128町歩(=ha)が上地され官有地となってしまったのだ。延暦寺は森林の下戻し請求を行い、不許可処分となったため、政府の国有土地森林原野下戻法(明治32年)制定を受け直ちに行政裁判所へ提訴し、1908(明治41)年、訴訟中の土地を除く1,020町歩の下払いが認められたのである。 こうして比叡山に広大な森林を有する延暦寺は、現在「比叡森林継承プロジェクト」を立ち上げ、宗教的雰囲気のある境内林と、境外林として水源林、天然林、観光林、経営林、資材林、里山林にゾーニングして適正に管理していこうとしている。これにより、宗教的荘厳さの中にあって、豊かな水を保ち、多くの動植物を育み、様々な資源となる森林を次世代に継承して行こうと努力している。 |
《フォト》
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
151 |
2025/11/4 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 『八瀬赦免地踊』と八瀬の里 叡山電鉄は開業100周年を迎え、9月27日に八瀬比叡山口駅で記念式典が行われました。これを記念し、出町柳駅ではドウノヨシノブさんが描いた鳥瞰図「叡山電車花洛遊覧圖絵」が飾られ、八瀬と比叡山が描き出されています。八瀬は古くから皇室とのかかわりが深く、江戸中期に起こった山林結界争いをきっかけに村人による燈籠踊りがはじまり、今日まで『八瀬赦免地踊』として受け継がれてきました。そこで、この踊りを見に八瀬の里を巡りましょう。 |
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《ご案内》 午後8時、燈籠を被り女装した少年(燈籠着(とろぎ))が各町の宿元(4か所)から門口に集まり、祭りがスタート。踊り子の少女、狂言等を行う新発意(しんぼち)、音頭取りらと行列を組み、秋元神社(八瀬天満宮)へ向かう。暗い参道に燈籠と提灯の明かりがゆら・ゆらと揺れ、幻想的な光景だ。神社石段で音頭取りが「道歌」を静かに歌い一段一段上がっていき、屋形に着くと燈籠着がその周りをまわる。 舞台では三番叟(そう)(※1)が演じられたのち、踊り子たちによる「汐汲踊」「花摘踊」が行われ、続いて新発意たちによる狂言が奉納される。やがて「狩場踊」音頭がはじまり、「いざや帰らんわが宿へ」と歌い始めると燈籠が宿元へ帰っていき、祭りは終わる。 八瀬赦免地踊は10月の秋元祭で行われる踊り。主役の女装した少年が被る燈籠は高さ約70センチの切子燈籠で、赤紙に花鳥や武者絵などが透かし彫りされ白の地紙に張ったもの。燈籠は4対8基作られ祭りが行われる。 この踊りは、1707(宝永4)年に起こった延暦寺との山界相論で、八瀬に有利な裁定を下した老中秋元但馬守喬知(たかとも)に感謝し、氏神である八瀬天満宮の横に綸旨宮(りんじのみや)を建て秋元神社とし、毎年秋に奉納するもの。八瀬の村人は中世より「八瀬童子」と呼ばれ、薪炭の生産・商売を生業としつつ、朝廷・延暦寺などの駕輿丁役や雑役を担い、諸課役免除、諸商売免許の権利を得つづけたが、江戸中期に起きた延暦寺との山界相論でその基盤を失いかけたので、秋元但馬守の裁定がよほどうれしかったのだろう。その後、燈籠踊りは今日まで受け継がれてきた。京都市内で燈籠踊りの面影をとどめているところは少なく、現在では左京区久多の花笠踊と八瀬赦免地踊を数えるのみであり、貴重な伝統行事だ。 八瀬は、上高野から高野川に沿って北東に延びる鯖街道(国道367号)沿いの集落だ。街道沿いの延長が約5キロと長く、この地域を走る京都バスのバス停は、八瀬駅前から花尻橋まで11もある。ここに4ヶ町、804世帯、1,634人(2020国勢調査)が暮らしている。 秋元神社のある八瀬天満宮はバス停「ふるさと前」南の鳥居から東に行った山際にある。石段を登って正面に本殿、その右手に秋元神社が鎮座する。この天満宮は菅原道真公を祀るために10世紀に建立されたという。本殿は三間社切妻造・銅板葺きの建物で1844(天保15)年に再建されたもの。蟇股表面に臥牛、裏面に星梅紋を配し、天満宮としての特徴を備えている。背面扉の内側には十一面観音絵図が納められており神社建築として珍しい。街道脇の鳥居から山際まで田畑の中を参道が一本通り、その先に木々に包まれて社殿が並ぶ境内は、比叡山麓の歴史的風土を構成する重要な要素となっている。 八瀬は比叡山延暦寺に通じるケーブルカーの出発地でもある。バス停「八瀬駅前」の東にケーブル八瀬駅があり、全長1.3キロの叡山ケーブルは1925(大正14)年に開業。戦時中不要不急線として休止したが、1946(昭和21)年に再開。高低差はケーブルカーとして日本最大の561メートル。八瀬駅から比叡駅までの9分間、比叡山から見た京都市街の眺望が楽しめる。 鯖街道を南西に下り、上高野のバス停「上橋」近くには崇道神社がある。長岡京廃都理由で紹介した怨霊説に登場する早良親王を祀る神社だ。平安京遷都後の800(延暦19)年、桓武天皇は早良親王に崇道天皇の名を追贈し祟りを避けようとしており、その霊を慰めるために創建されたという。一説には小野神社の旧地ともいわれ、本殿後方の山中には小野妹子の子、毛人(えみし)の墓があり、石棺中から銅板墓誌(国宝)が発見されている。 平安京の北東方向(鬼門)に位置する八瀬は古くから皇室との関係が深く、村の歴史を伝える祭りが今も行われていた。それだけでなく、長岡京から平安京への遷都のきっかけとなった早良親王のみを祭神とする神社が、天皇の名で鯖街道沿いに存在していた。 |
《フォト》
(※1)能の「翁」で千歳・翁に次いで3番目に出る老人の舞。これが地方に伝播し各地の民族芸能に取り入れられたもので、多くは最初に演じられる。(デジタル大辞泉より)
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
149 |
2025/9/1 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 『長岡宮跡』と向日神社 今年7月26日、長岡宮内裏「西宮」西方地区の発掘現地説明会が向陽小学校で行われ、猛暑のなか、向日市埋蔵文化財センターの担当者が熱心に調査報告をしました。この調査では大型掘立柱建物跡が見つかり、平城宮や難波宮に使われた型式の軒丸瓦が出土しました。向日市の市街地には、長岡宮の痕跡があちこちにあり、大極殿跡などが史跡公園として整備されています。そこで、長岡宮が築かれた向日丘陵周辺を巡り、長岡宮跡を探してみましょう。 |
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《ご案内》 平城京から784(延暦3)年に遷都した長岡京の内裏跡付近から、大形掘立柱建物跡が出土した。南北5間×東西2間の建物(1間=3メートル)で、1.5メートル東にも同形の建物跡があり、柱穴に抜き取られた形跡があることから建物を東へ建て替えたと考えられている。また出土遺物として、平城宮式の複弁蓮華文軒丸瓦と後期難波宮に使われた型式の重圏文軒丸瓦が出土しており、平城宮や難波宮から転用されたことがうかがえる。 長岡京は存続期間が10年と短いなか、天皇の居所である内裏が3つ造営された。遷都当初の第一次内裏が「西宮」、次が大極殿院東方の「東宮」、そして平安京遷都で宮を壊体するため移り住んだ東院である。「西宮」は東西規模が121.9メートルで周囲は回廊で囲まれており、今回の調査地は回廊の西約20メートルの位置にあたる。更に西に行くと宮域西端の築地塀(西面大垣)が確認されており、調査地は回廊と西面大垣に挟まれた幅約80メートルの平坦地だ。今回の建物跡から南西約40メートルのところには、規模や向きを同じくしする別の建物跡が既に見つかっており、両者は対角方向に向かい合う位置関係にあることから、この平坦地に左右対称で南北棟が同数の建物が配置されていたと考えられるという。これらは桓武天皇の生活を支える「内廷官司」だった可能性があるようだ。 桓武天皇が784年に遷都した長岡京は、東西4.3キロ、南北5.2キロの規模。向日神社の東に長岡宮を置き、平安京と同様に、宮域の南辺中央から南に朱雀大路を設け、朱雀大路を中心軸とした条坊制で碁盤の目状に区画割りされている。幅24メートルの大路で囲まれた大区画を「坊」、これを幅9メートルの小路で16分割したものを「町」と呼び、一町は約120メートル四方で構成されている。東西方向の大路は、北の北京極大路から南の九条大路までの11本、南北方向の大路は、朱雀大路を中心に外側に向かって一坊大路から四坊大路までの計9本となっている。 佐々木恵介著「平安京の時代」(文献1)によれば、「町」の大きさが場所によって異なるという。宮域の南面と東面、西面は大路間の距離が一定なので道路幅によって町の一辺の長さが異なるが、それ以外の南東側と南西側は一辺の長さが一定で、そこに道路幅が加わる街区割りだという。これは和室の広さを決めるとき、柱を畳の外側に置いて割り付ける「畳割り」と、柱真間の距離を固定し柱の厚みを除いた長さを畳の枚数で割り付ける「柱割り」に似ている。宮域の南面、東面、西面は柱割り方式だが、それ以外は畳割り方式ということになる。平安京は畳割り方式、平城京は柱割り方式なので、長岡京は平城京から平安京への過渡的な都市構造であったわけだ。 長岡京の北端中央に配置された宮域は、朱雀大路の北にある南門を入ると8棟の朝堂が築地塀で囲まれた朝堂院があり、その北には大極殿と後殿(小安院)が複廊で囲まれた大極殿院へとつづく。現在、これらの一部が史跡公園として整えられている。内裏は当初大極殿院の西方に設けられた(西宮)が、のちに大極殿院東方へと移った(東宮)。東宮には内裏特有の内郭築地回廊と外郭築地の二重の大壁が巡らされている。この内郭築地回廊の上に建っている旧上田家住宅(1910(明治43)年築、国登録有形文化財)は、格調高く整えられた農家住宅として保存・公開されるとともに、回廊跡や長岡宮跡の遺構を解説、展示している。 向日丘陵の西端に位置し、長岡宮の西端にあたる向日神社は、718(養老2)年に創建した。長岡京遷都より66年前のことである。延喜式神名帳には向神社と記され、のちに火雷神社を併祭し向日神社として今日に至っている。三間社流造の本殿は室町中期の1422(応永29)年に造られた国の重要文化財で、明治神宮のモデルになったといわれている。このほか幣拝殿及び本殿覆屋や客殿など、13の建物は国登録有形文化財になっている。 向日神社北側の勝山公園内には元稲荷古墳が残っている。全長約94メートルのこの古墳は、古墳時代前期初頭(3世紀末頃)の前方後方墳であり、刀剣類、斧などが出土し、墳頂からは特殊器台形埴輪が発見されている。史跡乙訓古墳群の一つであり、周辺には弥生時代の高地性集落と思われる北山遺跡もある。向日丘陵には長岡宮の遺跡や古墳時代の痕跡が各所に残っている。 |
《フォト》
(文献1)「平安京の時代 一 桓武王権の成立 1 長岡京の時代」佐々木恵介著、吉川弘文館 2014年 (出典1)「長岡宮内裏「西宮」西方地区の調査(現地説明会資料)」向日市埋蔵文化財センター 2025年 (出典2)「長岡京跡の条坊制」長岡京市埋蔵文化財センター公式サイト (出典3)「長岡宮」向日市埋蔵文化財センター公式サイト
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京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
144 |
2025/4/7 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 法界寺『裸踊り』と日野界隈 「meetus(ミータス)山科-醍醐」をご存知でしょうか。山科-醍醐の魅力を最大限活かし、あらゆる世代がワクワクする地域としていくため、京都市が取り組むプロジェクトです。今年3月に策定されたプランには、石田駅周辺の具体策として「東部クリーンセンター跡地を学び・交流・憩いの場へ!」が挙がっています。石田駅周辺には国宝の法界寺阿弥陀堂があり、そこでは1月14日の夜に『裸踊り』が行われますので、この行事を見に日野界隈を巡りましょう。 |
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《ご案内》 「頂礼(ちょうらい)、頂礼」、「頂礼、頂礼」。勇ましいかけ声が夜寒の境内に鳴り響いた。 1月14日は法界寺裸踊り。江戸時代中期に始まったとされる寒中行事で、五穀豊穣や無病息災を願う「修正会」が元日から営まれ、最終日の14日に締めくくりの「結願法要」の一環で、住民が踊りを奉納する。 午後7時20分、結願法要開始。阿弥陀堂に集まった男児たちが褌姿となって元気いっぱい裸踊りを披露した。8時15分、井戸水で水垢離(みずごり)をした褌姿の男たちが、阿弥陀堂広縁で裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く打ち合わせて「頂礼、頂礼」と連呼し、祈願をこめて裸踊りを踊った。その勇壮な姿に参拝者から拍手歓声が上がり、境内は熱気に包まれた。8時40分、裸踊りが終了し、結願法要は成満した。 今年(2025年)の裸踊りは、地元の成人男性7人と男児6人が参加した。4年ぶりとなった昨年は、大人が10人、子ども4人であった。公開されている「京都の歴史と文化 映像ライブラリー」(※1)には1999(平成11)年1月の様子が記録されており、二十人前後の大人と数十人の子どもが入れ替わり立ち替わり、体をぶつけあって激しく踊っている。二十数年の間に出演者が激減し、後継者育成が大きな課題となっている。 法界寺は藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、本尊は薬師如来。地元では「日野のお薬師さん」と呼ばれ、日野薬師または乳薬師として親しまれてきた。822(弘仁13)年、藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像をお祀りし、1051(永承6)年、日野資業が薬師如来像を造ってその小像を胎内に収め、薬師堂を建立して寺としたという。 国宝の阿弥陀堂は、建立年代について明らかでないが、様式上鎌倉前期の建立とみられている。方五間、宝形造、檜皮葺で裳階を備えた方形平面。内陣は方一間で中央に仏壇を置き、丈六の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置する。柱や天井、小壁には天人などの文様を描く。この堂は全体の調子が非常に清潔で、かつ大らかな趣があり、同じ浄土形式仏堂でも平等院鳳凰堂などと趣が異なっている。 法界寺の北東には萱尾神社が建っている。日野村の産土神として崇敬を集め,江戸時代までは法界寺の鎮守社でもあった。現在の本殿は,1652(慶安5)年に再建された一間社流造の建物(京都市指定有形文化財)で,全体に丹塗り,胡粉塗,極彩色が施されている。本殿正面には、中央部分が丸くその下に立像が彫られたキリシタン灯籠があり、「マリア観音」と口伝えられている。 萱尾神社から東に山道を登っていくと、鎌倉時代の歌人鴨長明(1153?~1216)が草庵を築いたと伝わる巨石の下に、長明方丈石という碑が立っている。後鳥羽上皇に才を認められながらも俗世での望みが断たれ、出家した長明は、1211(建暦元)年、都から東山を隔て戦乱等の被害に遭うことが少なかった日野に隠棲し、都で相次いだ大火や天災を、無常観を基調に『方丈記』に綴ったのである。 法界寺から最寄駅の地下鉄石田駅に戻ると、駅南西方面に天穂日命神社がある。1783(天明3)年に造営された現在の本殿は、身舎(もや)正面の柱間が2間という、京都市内にはほとんど例のない二間社流造形式の建物である。境内は万葉集などで和歌の名所として知られた「石田の杜(いわたのもり)」に比定されており、外環状線に並ぶロードサイド店の奧で、杜と社殿が佇んでいた。 |
《フォト》
(※1)京都の歴史と文化 映像ライブラリー「日野裸踊」《(公財)京都市文化観光資源保護財団》【https://www.kyobunka.or.jp/library/events/181.php】 ・製作年月:平成15年度(2003)[平成11年(1999)1月撮影] ・製作:京都市(企画)・松竹京都映画株式会社 |
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