木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2024/10/07

シリーズ《生き続ける文化財》 : 『花背松上げ』と『久多の花笠踊』

京都では816日に「五山送り火」が行われますが、この頃北部山間地域では「松上げ」が行われます。京都市内の松上げは花背や広河原など5カ所で行われており、その先陣を切って、五山送り火の前日(815日)に行われるのが『花背松上げ』です。桂川上流の広い河原で行われる花背の松上げを一度見たいと思っていたところ、そのチャンスが到来しましたので花背に向かいました。この機会に、花背の北方にある大悲山峰定寺(ぶじょうじ)や久多地域も訪ねましょう。

《ご案内》

左京区花背八桝町の河原に設けられた松上げ会場の燈籠木場(トロギバ)には、高さ20メートルの燈籠木(トロギ)を中心に約千本の地松(地面に刺した松明)が用意されていた。

午後8時過ぎ、花背の村人がお堂に集まり松上げの準備を始める。春日神社の御神火でお堂の前に篝火をたき、各自松明に火をつけて出発。松明をもって進む男たちの行列は橋を渡って河原へと進み、トロギバに到着すると地面に差し込まれた千本の地松に点火。続いて各自持ってきた上げ松【写真A】に火を着け、くるくると回し始める。太鼓の合図とともにその火玉をトロギの先端にあるモジ(傘状の籠)目がけて投げ上げる。

夜空に火玉が放物線を描く。何本もの放物線が描かれるが、なかなかモジには入らない。そのうち観ていた客が火玉に掛け声を掛けて応援する。20分ほど経過したころ、モジに入った火玉がトロギの先端で炎を上げる。それを見て観客は、「今年は例年より早かった」などと着火を褒める。その後も火玉は夜空を飛び交う。しばらくすると、突然モジが激しく燃え上がり、同時に炎が柱をつたって下に燃え落ちる。トロギ全体が大きな火柱となって輝く。燃え落ちた炎が消えたころ、燃え残るトロギが川に向かって倒されていく。

「松上げ」は、洛北から若狭へかけての山間集落で伝承されてきた、愛宕信仰による献火の行事。精霊送りや農作物の豊作を祈願する火の祭典でもある。市内では花背のほか、久多宮の町、広河原、雲ヶ畑、小塩で行われている。五山送り火の前日に行われる『花背松上げ』は、集落あげての、いや京都の一大ページェントだ。河原に点灯する千本の松明、放物線を描く火玉、山に向かって燃え上がる火柱、ゆっくり倒れていく巨木とモジの火。素朴にして雄大な山里の火祭りであった。松上げが終わると、男たちは列をなしてお堂に戻り、そこで伊勢音頭が躍られる。

トロギバから鞍馬街道を北に上がり、花背大悲山口を寺谷川に沿って東に行くと峰定寺がある。その門の手前には数寄屋造りの美山荘が建ち、渓流沿いの風情と相まって涼やかな空間を醸し出している。門を入ると、山に向かって仁王門が建ち、そこに二体の金剛力士像が立っている。本堂はそこから山中に30分ほど入ったところだが、昨年の台風7号の被害により寺は閉門されたままであった。

大悲山峰定寺は、平安末期の1154(仁平4)年に山岳修験者の観空西念が創建したもので、鳥羽上皇の勅願により不動明王・毘沙門天像が奉納されたことに始まる。寺の造営には工事雑掌として平清盛が任命されたと伝えられる。山麓の仁王門や山中崖地に建つ本堂は、鎌倉末期の1350(貞和6)年に再建されたもの。本堂は五間四方の寄棟造で崖に張り出す舞台懸造り、仁王門は入母屋造の八脚門となっていて、重要文化財に指定されている。大悲山は峰定寺の境内として山全体が山岳信仰の地となっており、「花背大悲山京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている。本堂と大悲山の景観を一刻も早く観たいものであり、早期の復旧・開門を期待したい。

大悲山の北方には京都市最北端の地、久多がある。この地域では毎年824日に花笠踊が行われる。『久多の花笠踊』は、地元で花笠と呼ぶ、美しい造花で飾った灯籠を手に持ち、太鼓に合わせて歌い踊るもので、中世に流行した風流踊の様子をうかがわせるという。

花笠は、集落ごとに設ける準備拠点「花宿」に各自が造った花弁を持ち寄り、直前の1週間ほどで飾り付ける。1輪の花弁は50本以上、これを32輪集めて灯籠を造るので11600本以上の花弁が必要だが、全て手作り。

踊り当日の夜,各花宿に集まった男たちが花笠に火をともし出発。まず上の宮神社に集り本殿に花笠を供えた後、「より棒」を持った二人が棒を打ち合い、続いて締太鼓を打って歌い、踊る。次に大川神社で奉納した後、志古淵神社に向かう。志古淵神社では既にヤッサ踊り(盆踊)が踊られており、花笠踊の一行が到着し花笠を供えた後、拝殿前で「より棒」を打ち合うと盆踊が終わり、花笠踊が始まる。踊りの所作は、体をかすかに左右にひねってかがんだり、左右の足を交互に出すなど、簡単な動作を繰り返すものだが、暗闇の中でろうそくの明かりに照らされた花笠が、哀調をおびた曲にあわせてゆらゆらと揺れる姿は幻想的である。この『久多の花笠踊』が2022年に「風流踊」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録された。

山里には山里ならではの伝承がある。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2024/09/02

シリーズ《生き続ける文化財》 :  世界遺産『平等院』と宇治川

大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部にゆかりのある石山寺から平等院まで、ボートに乗って瀬田川を下ると、まず瀬田川洗堰で陸に上がる必要があります。堰を越え川に戻って瀬田川の急流を下ると、滋賀県(大津市)と京都府(宇治市)の境あたりで宇治川と名称を変え、天ヶ瀬ダムに到着します。ダム湖の名は「鳳凰湖」。陸に上がってダムを越え、宇治川に戻って下っていくと、宇治橋の手前の朝霧橋で平等院に到着します。それでは『平等院』に行き、宇治川をたどってみましょう。

《ご案内》

平等院鳳凰堂は宇治川に面して建っている。境内の池(阿字池)の中島に建つこの仏堂は、棟飾りに鳳凰をおいた中堂を中心に、左右に配された翼廊とともに軽快かつ優美な建築となっている。正面から見た姿が翼を広げた鳥のように見えることから、江戸時代より「鳳凰堂」と呼ばれるようになった。

平等院は、時の関白藤原頼通が父道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、1052(永承8)年に開創したもの。翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には平安時代最高の仏師定朝により制作された阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたといわれる。

鳳凰堂は前面の庭園とともに西方極楽浄土を具現したものとされており、仏堂が東方に面して建てられ、阿字池を隔てて西方に極楽浄土があることを示している。では、この鳳凰堂を見る場所は何処なのだろう。宇治川か、対岸か、それとも対山の仏徳山か?

平等院庭園の中核となる阿字池は、かつては鳳凰堂の西方にも広がり、正面側は庭園と宇治川岸とが直結し東に広く開いていた。宇治川東岸の宇治上神社は古くからあったが、鳳凰堂完成後その鎮守としてあがめられ、平等院の支援を受けて社殿が整えられた。社殿は平等院に向けて建ち、本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は世界遺産緩衝地帯の一部ともなっている。そこで、宇治川を境に西岸の平等院を彼岸、東岸を此岸として認識されたとも考えられている。

このように古くから尊ばれた宇治川ではあるが、京都盆地南部の低湿地を流れるため、その川筋が大きく変化してきた。地図で宇治川をたどると、宇治川に架かる宇治橋と、宇治川・桂川・木津川の三川合流域に架かる淀川御幸橋(宇治川御幸橋)がほぼ同緯度にある。その距離約9.6キロ。かつてその中間に、東西4キロ、周囲16キロ、面積約 800ヘクタールの広大な池(巨椋池)があり、宇治川は幾筋もの河道に分かれて巨椋池へ流入していた。巨椋池の水は淀のあたりで桂川、木津川と合流し、淀川となって大阪湾へ注いでいた。現在の宇治橋―淀川御幸橋間は北に大きく彎曲し、川筋をたどれば約13.6キロの流れとなっている。この川筋は、ご存知のとおり豊臣秀吉が槇島堤を築いたことによるが、これにより宇治川が巨椋池から切り離された。しかし両者は完全に切り離されることはなく、淀川増水時に巨椋池が氾濫する水量を受け止めるクッション、いわば「遊水池」の役割を果たしてきた。

淀川流域では明治時代になっても大きな被害をもたらす洪水が頻発し、大坂の発展には淀川の安定が欠かせなかった。なかでも1885(明治18)年の大洪水では、大阪市内の大阪城から天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人に達したという。この洪水をきっかけに、新淀川の開削のほか、①瀬田川洗堰の建設、②宇治川の付け替えなどの「淀川改良工事」が行われ、1910(同43)年に完成した。①は淀川の大きな水源となる琵琶湖の水位を人為的に調節し、沿岸の洪水を防ごうとするもので、05(同38)年に完成した。これにより巨椋池が果たしていた遊水池としての役割は必要なくなり、三川合流部の付替えが可能となったため、その周辺地域の洪水対策として、②宇治川を淀の南へ付け替え連続堤防を造ることで、宇治川と巨椋池を完全に分離した。この完全分離により独立湖となった巨椋池は、水質悪化でいわば死滅湖となり、33(昭和8)年から国内初の国営干拓事業が実施され、陸地となった。

淀川改良工事により淀川下流部の洪水被害は起こりにくくなったが、大正から昭和にかけて中流部・上流部でたびたび堤防が壊れ浸水被害が発生したため、河道の改修や掘削、堤防の強化などの取り組みが継続的に続けられた。53(同28)年、台風13号による記録的な大雨により全国各地で水害が起こり、それまでの後追い的な洪水対策ではなく、水系全体を見据えた根本的な治水対策が必要とされた。これを受け、翌年「淀川水系改修基本計画」が策定され、洪水に備えるため上流のダムで流量を調整して下流の水位を低下させる方式が導入された。この結果、宇治川では観月橋上流から宇治橋上流までの区間で河床の浚渫や築堤が行われ、64(同39)年には洪水時の流量調整ダムとして「天ヶ瀬ダム」が竣工した。宇治川は、時代の要請に応じて大きく変化していったのである。

《フォト》