木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2026/3/2

シリーズ《生き続ける文化財》 : 『園城寺(三井寺)』と僧兵

「山法師」をご存じでしょうか。延暦寺の僧兵がそのように呼ばれました。僧兵は平安時代末期には強力な武装集団となり、朝廷や摂関家に対して強訴を繰り返しました。白川法皇が天下三不如の一つとして「山法師」を挙げたほど、僧兵が朝廷の不安要素であったことがうかがえます。その僧兵に「寺法師」と呼ばれる集団もありました。それが三井寺の僧兵です。三井寺は10世紀末に比叡山延暦寺から分離した天台寺門宗の総本山ですので、その歴史を見て歩きましょう。

《ご案内》

平安京遷都を機に日本天台宗の基礎をつくった延暦寺は、10世紀後期には現在のように東塔、西塔、横川の3地域を中心に堂舎が整備され、隆盛を築いていった。しかし一方で、堂舎や住僧が急激に増え寺内の雑務に従事する者が求められ、しかも同寺の貴族化・荘園領主化が進むなかで、修学を専らとする学侶に対し堂衆と呼ばれる下級僧侶が増加し、これが寺領などから集められた百姓の兵士とともに組織化され、僧兵の母体となっていった。

僧兵は明治時代の造語であり、かつては堂衆・大衆・悪僧などと呼ばれたが、刀杖を持って行動した南都北嶺(奈良の諸寺と延暦寺)の武装集団をいう。白河法皇が「天下三不如意」の一つに「山法師(延暦寺の僧兵)」をあげたように、院政期にはその行動が重大な社会問題となった。ときには日吉社の神輿を押し立て朝廷に対し強訴を行ったりもした。

このような僧兵の悪行は、延暦寺の宗派内対立でも行われた。それが延暦寺(山門)と園城寺(寺門)の抗争である。延暦寺は山法師、園城寺は寺法師と呼ばれ、山門・寺門の対立抗争の中で武装闘争の先兵となっていったのである。

園城寺には霊鐘堂に弁慶の引き摺り鐘が展示されている。比叡山の僧兵だった弁慶が、同寺との抗争で総高199センチのこの鐘を奪い、比叡山へ引き摺り上げて撞くと、鐘の音が「イノー(往のう)」と聞こえたため谷底へ投げ捨てたという逸話が寺に伝わっている。山門・寺門の抗争を象徴するような話だが、鐘に付いた傷跡や割れ目はその時のものという。

園城寺は、667年に近江大津京を開いた天智天皇の孫・大友与多王が、父の霊を弔うため寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことがはじまりとされる。境内には天智・天武・持統の三天皇の産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」といわれたことから三井寺と呼ばれるようになった。この霊泉は金堂西側にある閼伽井屋から湧き出す清水とされる。

園城寺は平安前期には衰退してしまうが、それを復興したのが円珍(81491)である。円珍は空海の姪を母とし、延暦寺に入って初代天台座主義真の弟子となった。853(仁寿3)年、唐に渡って多くの経典類を日本にもたらし、密教を修めて天台密教の充実・普及につとめた。862(貞観4)年、園城寺の別当となった円珍は天台密教の道場として再興し、6年後、第5代天台座主に任命されると、同寺が円珍に下賜され、唐院を建立して経典類の一切を移転させた。こうして園城寺は円珍とその門流の拠点となっていった。

円珍の死後、延暦寺では最澄の法流が円仁派と円珍派とに分れ、天台座主職など人事をめぐる対立が激化し、両派の僧兵が激突した。993(正暦4)年、闘争に敗れた円珍派は山を下りて園城寺に入り、延暦寺を山門、園城寺を寺門と称して天台宗は二分された。この対立抗争で園城寺は延暦寺による焼き討ちをたびたび受け、中世末期までに全焼7回を含む大規模火災が10回にも上るという。

1595(文禄4)年、園城寺は豊臣秀吉から突如闕所(けっしょ)を命じられた。この闕所令により堂塔伽藍の多くは破棄され、寺領もすべて没収されてしまった。しかし秀吉が他界した1598(慶長3)年の闕所令解禁とともに、本格的な再建が開始された。まず智証大師円珍を祀る唐院が復興され、寺領43百余石も安堵された。翌年、和様による金堂が秀吉の正室北政所の寄進により着手され、一山の学問所である勧学院も2年後に再建された。徳川家康も1600(慶長5)年から翌年にかけて伏見城内の三重塔と仁王門(大門)を移築している。享保年間(171636)になると、境内一円の大規模な整備が進められ、南院別所の近松寺本堂が建立された。再建事業の最後を飾るのが西国三十三所霊場で知られる観音堂で、1690(元禄3)年に建立されている。

現在、三井寺には慶長年間に再建された金堂・勧学院客殿・光浄院客殿、そして足利尊氏が再建した新羅善神堂の4棟の国宝と、家康が伏見城から移築した三重塔や大門(仁王門)など11の重要文化財建造物が建っている。明治維新により北院境内が陸軍用地として接収され、新羅善神堂と法明院を残し他のすべての僧房が廃絶させられてしまった。それでも約35万坪に及ぶ境内には、数多くの堂塔伽藍が建ち並び、多くの参詣者が訪れる。春には長等山を桜の花が埋め尽くし、湖国を代表する景勝地となっている。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2026/1/5

シリーズ《生き続ける文化財》 : 延暦寺から『日吉大社』へ

比叡山には2つのケーブルカーが走っていますが、日本最初のケーブルカーをご存じでしょうか。生駒ケーブルの宝山寺線で、1918(大正7)年の開業です。この頃から都市近郊の霊山でケーブルカーの敷設が盛んに進められ、叡山ケーブルは1925(大正14)年、坂本ケーブルは1927(昭和2)年に開業しました。これにより比叡山は多くの参詣者に開かれた場所となって行きました。そこで今回は、比叡山からケーブルカーに乗って坂本に向かい、山麓の『日吉大社』を巡りましょう。

《ご案内》

「一山に立て籠っている」と言われた比叡山延暦寺が広く参詣者を受け入れる契機になったのは、1921(大正10)年の伝教大師(最澄)一千百年大遠忌であった。

延暦寺は古くから修行の山としての性格が強く、参詣者に対する関心は高くなかった。しかし大正後期ごろから、その姿勢が延暦寺や天台宗内で問題視され、思想の喧伝や参詣者の受け入れ、延暦寺への移動手段の改善が求められるようになった。その背景には、近代以降の寺社参詣が鉄道網の整備によって徒歩から鉄道へと変化し、都市近郊の霊山では、大正中期以降ケーブルカーの敷設が盛んに進められたという事情がある。

天台宗は大遠忌を教団再興の重要な契機と位置づけ、遠忌前年までの3年間で延べ240日以上に亘って全国各教区への巡錫(じゅんしゃく)(伝道)が行われ、延暦寺では記念事業として浄土院、大講堂などの堂塔改修や、主要参道の整備が行われた。また地方団参者の募集では、参拝団の移動手段に高い関心が寄せられ、鉄道や汽船を活用した輸送対策が実施された。その結果、大津と坂本を結ぶ江若鉄道の路線(三井寺下―叡山間)が遠忌法要の前日に開業した。

大遠忌が盛況裡に終わり、天台宗は報恩伝道をさらに5年間継続することとし、延暦寺では信者に対する本山参詣の勧誘を強く意識するようになった。しかし移動手段は江若鉄道と汽船のみであったため、利便性向上を図るための新規鉄道敷設に向けた動きをみせた。

京都方面では、叡山電気鉄道が出町柳八瀬間の平坦線と八瀬―四明ヶ嶽間のケーブル線の免許を1922年に取得し、19259月に平坦線、同年12月にケーブル線が開業した。

坂本方面では、1919年ごろからケーブルカーの計画が進められ、比叡登山鉄道株式会社が坂本叡山中堂間の免許を1924年に取得し、坂本からのケーブルカーが19273月に開業した。また同年9月には琵琶湖鉄道汽船が坂本駅-石山駅間を全通している。

こうして比叡山観光が活況を呈していったのである。

延暦寺へは叡山ケーブルに乗ったので、帰りは坂本ケーブルで下山した。全長2キロの坂本ケーブルは現役で日本最長のケーブルカー。両端の駅舎は国の登録有形文化財だ。ケーブル坂本駅の北には40ヘクタールもの広大な境内を有する日吉大社が鎮座する。

日吉大社は、崇神天皇の頃に創祀されたといい、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮である。日枝山(比叡山)の大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀り《東本宮》、その後大津京遷都のとき大和国から大己貴神(おおなむちのかみ)を移し《西本宮》、ともに祭神とした。平安時代には宇佐・白山・牛尾・三宮・樹下の神々も祀り「山王七社」と称した。境内には約40の社があり、それらを総称して「日吉大神」と呼ぶ。

社殿は信長の焼き討ちで焼失したが、その後復興し、西本宮本殿が1586(天正14)年、東本宮本殿が1595(文禄4)年に再建された(国宝)。両本殿は、切妻造の母屋の前面と両側面に庇をめぐらすという特殊な形で「日吉造(ひえづくり)」呼ばれる。床下にはかつて仏事を営んだ「下殿」と呼ばれる部屋があり、神仏習合の特殊形態として興味深い。

西本宮に向って参道を進み、大宮橋を渡ると山王鳥居が建っている。この鳥居は笠木の上に、山に見立てた合掌形の木を載せている。日吉大社が延暦寺の鎮守社であるところから神仏習合の象徴ともいわれ、他に類を見ないものだ。大宮橋は境内を流れる大宮川に架かる石橋で、走井橋・二宮橋とともに「日吉三橋」と呼ばれる重文だ。

東本宮の楼門を入ると、樹下神社の本殿が左手に、拝殿が右手に建っている。本殿と拝殿を結ぶ線が、東本宮と樹下神社で直交するという珍しい位置関係にある。

日吉大社の信仰の始まりとなった神体山八王子山の頂上付近には、三宮神社と牛尾神社の本殿・拝殿が並んで建っている。山上という地形に制約され、三間社流造の本殿に、懸造の拝殿が本殿正面縁を取り込むようにして建てられている。

境内には神格化された比叡山の猿もいて「神猿(まさる)」と呼ばれる。西本宮楼門の四隅の軒下には屋根を支える木像の「棟持ち猿」もいる。神猿は魔除けの象徴として祀られ、「魔が去る、何よりも勝る」に因んで大切にされてきた。

比叡山の麓に鎮座する日吉大社にはたくさんの物語が詰まっていた。

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京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2025/12/1

シリーズ《生き続ける文化財》 : 世界遺産『延暦寺』と比叡山

稲荷山から北に連なる東山三十六峰は、北端が比叡山といわれます。比叡山は平安京の鬼門に位置し、平安京遷都にあたり、桓武天皇は一乗止観院で鬼神鎮めの法要を営みました。その場所は比叡山延暦寺の根本中道です。延暦寺は比叡山中に100を超える堂舎を築き、後に法然、栄西、親鸞、道元、日蓮ら日本の仏教各派の始祖となった高僧を世に送り出した修行の寺です。そこで秋の比叡山に上り、東塔、西塔、横川の順に高低差が激しい延暦寺の境内を巡り歩きましょう。

《ご案内》

平安京の鬼門に位置する比叡山は、標高848メートルの霊山である。この山を学問と修行の場としたのが延暦寺である。

延暦寺は、最澄が785(延暦4)年比叡山中に草庵を結び3年後に一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創建したことにはじまる。このとき自刻の薬師如来像を安置し灯明を点じた。この灯は今日まで続き不滅の法灯“と呼ばれる。

794(延暦13)年の平安京遷都にあたり、鬼門に聳える比叡山の鬼神鎮めの法要が一乗止観院で盛大に営まれた。桓武天皇という最大の外護者を得た最澄は、31歳の若さで朝廷の内供奉(ないぐぶ)に任ぜられ、一乗止観院も官寺に準じる待遇を受けた。804(延暦23)年から1年間、最澄は唐に渡って天台教学を学び、禅の教えや密教の伝法を受けて、円蜜一致といわれる日本天台宗の基礎をつくりあげた。帰国後の806(大同元)年、朝廷から天台宗に年分度者(国家公認の僧の資格)が割り当てられ、天台宗が正式に公認された。最澄は822(弘仁13)年64日に遷化したが、その7日後悲願であった比叡山独自の大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立が勅許され、比叡山の日本天台宗が名実ともに根をおろした。

こうして延暦寺は平安京の鬼門を護る王城鎮護の寺として崇敬され、平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学び、後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのである。

延暦寺の堂舎は、10世紀後期には現在のように東塔、西塔、横川の3地域を中心に整備され、隆盛を築いていた。その後火災のたびに再建が繰り返され、特に1571(元亀2)年の信長による焼き討ちにより、峰の西側に建つ瑠璃堂、相輪橖を除く全てが焼失したが、秀吉や家康の援助で堂塔の再整備が進んでいった。

総本堂である根本中堂は、徳川三代将軍家光により1640(寛永17)年に再建されたもので、桁行11間・梁間6間の規模は平安時代以来のもの。須弥壇のある内陣は、参拝者の目の高さに合わせるため、中陣・外陣より一段低い土間となっており、天台宗の仏堂の特色をよく示している。根本中道の前面には中庭を囲んで凹字形に廻廊が設けられている。この廻廊は1642(寛永19)年に完成したもので、柱を三列にならべ、内側を床敷、外側を石敷とする。屋根は根本中堂が瓦棒銅板葺に改められたが、廻廊は当初のとち葺のままである。根本中道は2016(平成28)年から大改修が行われているが、改修現場を間近に見ることができる。

西塔の中心となる転法輪堂は山内最古の1347(貞和3)年頃の建物で、「釈迦堂」とも呼ばれる。信長の焼き討ち後、園城寺(三井寺)の弥勒堂(金堂)を1595(文禄4)年に移築したもの。前方2間の外陣の床は板張とし、内陣は一段低い土間となっており、天台宗本堂の基本的平面構成となっている。

転法輪堂の南側に建つ2つのお堂が常行堂と法華堂。それぞれ5間四方の建物で、背面出入口を除いて左右対称に造られ、法華三昧、常行三昧の修行の堂である。渡り廊下をにない棒に見立て、両堂を合わせて「にない堂」と呼んでいる。

比叡山を修業の場とする延暦寺は、比叡山中に1,700haもの広大な境内を有する。これは京都市中心部の上・中・下京区を合わせた面積の8割に相当する。うち97%は山林であるが、明治維新で領地が大きく揺れた。新政府による社寺領上知令(明治4年)と地租改正(明治6年)により、山林1,128町歩(ha)が上地され官有地となってしまったのだ。延暦寺は森林の下戻し請求を行い、不許可処分となったため、政府の国有土地森林原野下戻法(明治32年)制定を受け直ちに行政裁判所へ提訴し、1908(明治41)年、訴訟中の土地を除く1,020町歩の下払いが認められたのである。

こうして比叡山に広大な森林を有する延暦寺は、現在「比叡森林継承プロジェクト」を立ち上げ、宗教的雰囲気のある境内林と、境外林として水源林、天然林、観光林、経営林、資材林、里山林にゾーニングして適正に管理していこうとしている。これにより、宗教的荘厳さの中にあって、豊かな水を保ち、多くの動植物を育み、様々な資源となる森林を次世代に継承して行こうと努力している。

《フォト》

 

 

 

 

 

 

 

京、まち、歩く! レポート              by 木公だ章三

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2025/11/4

シリーズ《生き続ける文化財》 : 『八瀬赦免地踊』と八瀬の里

叡山電鉄は開業100周年を迎え、927日に八瀬比叡山口駅で記念式典が行われました。これを記念し、出町柳駅ではドウノヨシノブさんが描いた鳥瞰図「叡山電車花洛遊覧圖絵」が飾られ、八瀬と比叡山が描き出されています。八瀬は古くから皇室とのかかわりが深く、江戸中期に起こった山林結界争いをきっかけに村人による燈籠踊りがはじまり、今日まで『八瀬赦免地踊』として受け継がれてきました。そこで、この踊りを見に八瀬の里を巡りましょう。

《ご案内》

午後8時、燈籠を被り女装した少年(燈籠着(とろぎ))が各町の宿元(4か所)から門口に集まり、祭りがスタート。踊り子の少女、狂言等を行う新発意(しんぼち)、音頭取りらと行列を組み、秋元神社(八瀬天満宮)へ向かう。暗い参道に燈籠と提灯の明かりがゆら・ゆらと揺れ、幻想的な光景だ。神社石段で音頭取りが「道歌」を静かに歌い一段一段上がっていき、屋形に着くと燈籠着がその周りをまわる。

舞台では三番叟(そう)(1)が演じられたのち、踊り子たちによる「汐汲踊」「花摘踊」が行われ、続いて新発意たちによる狂言が奉納される。やがて「狩場踊」音頭がはじまり、「いざや帰らんわが宿へ」と歌い始めると燈籠が宿元へ帰っていき、祭りは終わる。

八瀬赦免地踊は10月の秋元祭で行われる踊り。主役の女装した少年が被る燈籠は高さ約70センチの切子燈籠で、赤紙に花鳥や武者絵などが透かし彫りされ白の地紙に張ったもの。燈籠は48基作られ祭りが行われる。

この踊りは、1707(宝永4)年に起こった延暦寺との山界相論で、八瀬に有利な裁定を下した老中秋元但馬守喬知(たかとも)に感謝し、氏神である八瀬天満宮の横に綸旨宮(りんじのみや)を建て秋元神社とし、毎年秋に奉納するもの。八瀬の村人は中世より「八瀬童子」と呼ばれ、薪炭の生産・商売を生業としつつ、朝廷・延暦寺などの駕輿丁役や雑役を担い、諸課役免除、諸商売免許の権利を得つづけたが、江戸中期に起きた延暦寺との山界相論でその基盤を失いかけたので、秋元但馬守の裁定がよほどうれしかったのだろう。その後、燈籠踊りは今日まで受け継がれてきた。京都市内で燈籠踊りの面影をとどめているところは少なく、現在では左京区久多の花笠踊と八瀬赦免地踊を数えるのみであり、貴重な伝統行事だ。

八瀬は、上高野から高野川に沿って北東に延びる鯖街道(国道367)沿いの集落だ。街道沿いの延長が約5キロと長く、この地域を走る京都バスのバス停は、八瀬駅前から花尻橋まで11もある。ここに4ヶ町、804世帯、1,634(2020国勢調査)が暮らしている。

秋元神社のある八瀬天満宮はバス停「ふるさと前」南の鳥居から東に行った山際にある。石段を登って正面に本殿、その右手に秋元神社が鎮座する。この天満宮は菅原道真公を祀るために10世紀に建立されたという。本殿は三間社切妻造・銅板葺きの建物で1844(天保15)年に再建されたもの。蟇股表面に臥牛、裏面に星梅紋を配し、天満宮としての特徴を備えている。背面扉の内側には十一面観音絵図が納められており神社建築として珍しい。街道脇の鳥居から山際まで田畑の中を参道が一本通り、その先に木々に包まれて社殿が並ぶ境内は、比叡山麓の歴史的風土を構成する重要な要素となっている。

八瀬は比叡山延暦寺に通じるケーブルカーの出発地でもある。バス停「八瀬駅前」の東にケーブル八瀬駅があり、全長1.3キロの叡山ケーブルは1925(大正14)年に開業。戦時中不要不急線として休止したが、1946(昭和21)年に再開。高低差はケーブルカーとして日本最大の561メートル。八瀬駅から比叡駅までの9分間、比叡山から見た京都市街の眺望が楽しめる。

鯖街道を南西に下り、上高野のバス停「上橋」近くには崇道神社がある。長岡京廃都理由で紹介した怨霊説に登場する早良親王を祀る神社だ。平安京遷都後の800(延暦19)年、桓武天皇は早良親王に崇道天皇の名を追贈し祟りを避けようとしており、その霊を慰めるために創建されたという。一説には小野神社の旧地ともいわれ、本殿後方の山中には小野妹子の子、毛人(えみし)の墓があり、石棺中から銅板墓誌(国宝)が発見されている。

平安京の北東方向(鬼門)に位置する八瀬は古くから皇室との関係が深く、村の歴史を伝える祭りが今も行われていた。それだけでなく、長岡京から平安京への遷都のきっかけとなった早良親王のみを祭神とする神社が、天皇の名で鯖街道沿いに存在していた。

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(1)能の「翁」で千歳・翁に次いで3番目に出る老人の舞。これが地方に伝播し各地の民族芸能に取り入れられたもので、多くは最初に演じられる。(デジタル大辞泉より)