木公だ章三 | 京都の“生き続ける文化財”周辺を訪ね歩きます。

アドバイザリー レポート            by 木公だ章三

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2021/05/06

シリーズ《生き続ける文化財》 : 『鳥羽離宮』と鳥羽作道

2020年度の京都検定・1級で,白河上皇が造営した鳥羽離宮の土地を寄進した貴族は誰か,という問題が出題されました。京都には千年を超えて都が置かれましたので,離宮がいくつも造られましたが,どうして大規模な離宮が,鴨川と桂川とが合流する鳥羽の地に造られたのでしょうか。それはなぞですが,ここで造られた鳥羽離宮からは多くの遺物が出土しています。今回はそれらを手掛かりに町歩きをしましたので,ご覧ください。(答えも見つけました。)

《ご案内》

鳥羽離宮は水運の要衝に造られていた。

鳥羽離宮は,白河天皇が1086(応徳3)年から造営した譲位後の御所である。鳥羽上皇の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されていた。現在の名神京都南インターチェンジ南部一帯に造られたこの離宮は,敷地が約180(180ha)といい,京都御苑の1.8倍の広さだ。最初の御所が南殿と呼ばれ,その後約70年間にわたって北殿・東殿・田中殿の造営が続き,それぞれの御所には証金剛院・勝光明院・安楽寿院・金剛心院の御堂が付属し,広大な池を持つ庭園が築かれていて,大規模な施設であったようだ。

しかしなぜ,京都南部の決して水はけがよいとはいえないこの地に,これ程まで大きな離宮を築いたのだろうか。

鴨川は,かつては竹田の東側を流れ,下鳥羽の南で桂川と合流していた。離宮が築かれた鳥羽の一帯は,この旧鴨川と桂川の合流点付近に位置している。この辺りと平安京とは,造都の際に朱雀大路を真南に延長させて整備したと考えられる「鳥羽作道」で繋がれ,淀川を上って鳥羽の港で陸揚げされた物資が,ここを通って都に運ばれたという。京と鳥羽は約3キロ離れていて,鳥羽作道は平安京羅城門から鳥羽に至る幹線道路であったのだ。そしてこの水運の要衝が鳥羽であったわけだ。

また,鳥羽は水郷が広がる風光明媚な場所で,狩猟や遊興の地としても知られていた。ここで11世紀に山荘を営んだ藤原季綱(すえつな)は,この地を白河天皇に献上し,そこを中心に営まれたのが鳥羽離宮「鳥羽殿」であった。院政期の鳥羽は政治・経済・宗教・文化の中心地だったが,南北朝の内乱期に戦火で多くの殿舎が焼失し,その後急速に荒廃していった。また,鴨川,桂川の河道が大きく変化し,鳥羽作道は次第に蛇行して鳥羽街道になったようだ。

現在,鳥羽離宮の様子を示す遺構は多くないが,東殿の安楽寿院や北向山不動院,馬場殿跡と想定される城南宮,白河・鳥羽・近衛の各天皇陵が現存している。また南殿跡は鳥羽離宮跡公園として整備され,園内の「秋の山」は南殿庭園の築山跡と考えられている。

現存する安楽寿院は市指定史跡で,本尊の阿弥陀如来坐像は重要文化財である。鳥羽上皇の御願により創建されたこの御堂は,たびたび災禍に遭い衰微したが,豊臣秀頼により復興されている。鳥羽・伏見の戦では官軍の本営となったが,兵火を免れた。しかし,わずかに残っていた諸堂も1961(昭和36)年の台風などで倒壊し,後に本堂が再建された。

北向山不動院は鳥羽上皇の勅願により建立されたもので,本尊の不動明王(重要文化財)は,王城鎮護のため北向きに安置されたことから「北向不動尊」と呼ばれたといわれる。

城南宮は,平安京遷都のとき王城(都)の南に国の守護神として創建されたといわれ,鳥羽離宮造営後は馬場殿の城南寺の鎮守社となり,競馬や流鏑馬が年中行事として催された。1221(承久3)年に後鳥羽上皇が倒幕を謀った承久の乱は,この行事に名を借り「流鏑馬汰へ」(やぶさめぞろへ)と称して近国の武士を城南寺に集めたとされる。その後,城南宮は鳥羽離宮の衰退によって地元三か村の産土神(うぶすながみ)として崇敬されるようになった。

明治の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦はこの辺りで始まり,勝利した薩摩藩は御礼参りに城南宮を訪れたという。兵士たちは鳥羽街道から小枝橋を渡って城南宮道を進んだのであろう。

《フォト》