京、まち、歩く! レポート by 木公だ章三 |
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2024/07/01 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 葛野大堰と『松尾大社』 「うかうかとおいで、とっととおかえり」といって親しまれる松尾祭が、今年は4月21日(神幸祭)と5月12日(還幸祭)に行われました。神幸祭では桂川で船渡御が行われ、6基の神輿と月読社の唐櫃が千本通より西の広い地域を巡幸します。この祭が行われる松尾大社は創建が古く、渡来人の秦氏と関わりの深い神社です。秦氏は桂川に大きな井堰を造り、両岸の荒野を農耕地へと開発していったといわれますので、その痕跡を巡りながら松尾祭に繰り出しましょう。 |
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《ご案内》 5世紀頃、秦氏は葛野川(桂川)からの取水のため「葛野大堰」を造ったといわれる。その場所は渡月橋付近と推定されており、これにより一帯が農耕可能な土地になった。 渡月橋の西約100メートルにある「一ノ井堰」は、昭和23年から始まる京都府営事業により10カ所余りの井堰を統合して建設されたもの。それまでは、嵐山通船北乗り場あたりから中島に向かって斜めに設けられた堰だった。明治後期から続く保津川下りの舟は、桂川左岸の亀山公園南で乗船客を下ろした後、かつての堰に沿うかのように南東に下り、渡月小橋を過ぎたところで舟揚げされる。その南には、洪水調整や灌漑用として造られ、室町時代に松尾・桂等の農業灌漑用水として利用された一ノ井堰の跡を示す石碑が立っている。その横の取水口から洛西用水が始まる。 洛西用水は、1948(昭和23)年から66(同41)年にかけて行われた京都府営洛西農業水利改良事業で整備されたもの。松尾大社境内を通って南流し、桂川右岸一帯の農地を潤している。 一ノ井川が境内を流れる松尾大社は、701(大宝元)年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が文武天皇の勅命を奉じて現在地に神殿を建立し、太古よりこの地方の住民に尊崇されていた松尾山の山霊を社殿に移したものという。平安時代は王城鎮護の社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されたようだ。平安京から見ると、北(玄武)に上賀茂神社、東(青龍)に八坂神社、南(朱雀)に城南宮が守り、西(白虎)は松尾大社が守護する「西の守り神」というわけだ。本殿は創建以来皇室や幕府の手で改築されており、現在のものは1542(天文11)年に大改修されたもの。桁行三間・梁間四間の特殊な両流造りで、箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、斗組、蟇股等の彫刻や模様などに中世の特色が現われており、重要文化財に指定されている。 松尾大社の例祭「松尾祭」は歴史が古く、平安初期に始まったと伝えられる。かつて松尾の国祭と称され、3月の卯(う)の日に出御(おいで)、酉(とり)の日に還御(おかえり)とされたことから「うかうかとおいで、とっととおかえり」といって親しまれてきた。近年は4月20日以後の第一日曜日に出御し21日目に還御となっており、今年は4月21日に神幸祭、5月12日に還幸祭が行われた。 神幸祭当日は、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社は唐櫃)が本殿の御分霊を受けて拝殿を三回廻った後、本社を出発した。松尾・桂の里を通って桂離宮北東の桂川右岸に到着し、桂川を順番に船渡御する。使われる船は松尾大社境内で安置されている渡御専用の船。船渡御は、御輿を担いだまま川に入り、御輿の横から船を漕ぎ入れ、船のバランスを取りながら川中を進んでいく。桂川は土砂が堆積して川底が浅くなっているため、事前に巡航路を浚渫するそうだ。今年は小雨が降る中での船渡御であったが、桂大橋からは緑に囲まれた広い川の中を御輿が横座りしてゆるゆる進む船の姿が見渡せ、神聖な気持ちになった。対岸に渡った御輿は左岸堤防下の河原斎場で七社勢揃いした後、4基の神輿と唐櫃は西七条御旅所に、2基の神輿は西京極の川勝寺と郡の御旅所に向かった。 還幸祭には、6基の神輿と唐櫃が西寺跡の「旭日の杜」に集合して祭典を行った後、列を整えて朱雀御旅所に立ち寄る。その後、七条通りを西に進み、西京極の川勝寺、郡、梅津の旧街道を経て松尾橋を渡り本社に還御する。還幸祭では本社の本殿をはじめ、各御旅所、神輿から神職の冠・烏帽子にいたるまで葵と桂で飾るため、古くから「葵祭」ともいわれてきた。「葵祭」といえば賀茂両社が有名だが、秦氏との関係の深い松尾大社や伏見稲荷大社にも同様の伝統が存在していたわけだ。 松尾七社を地図にプロットしてみると、北は嵐山、東は御前通、南は九条通、西は西山の麓となっていて、氏子地域が広大だ。千本通(朱雀大路)を挟んで東が伏見稲荷大社、西が松尾大社の区域だったというからすごい。このように広大な区域を巡幸する松尾祭は、古くから京都の人々に親しまれていたことがよく分かる。 |
《フォト》
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アドバイザリー レポート by 木公だ章三 |
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2024/03/04 |
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シリーズ《生き続ける文化財》 : 世界遺産『天龍寺』と小倉山 2023年度京都・観光文化検定試験に、「西芳寺や天龍寺の庭園を手掛け、枯山水や石組を使った庭園の発展に大きな影響を与えた僧侶は誰か。」という問題(3級)がありました。選択肢は、(ア)古嶽宗亘 (イ)無関普門 (ウ)夢窓疎石 (エ)雪江宗深です。いずれの僧侶も京都に関わりのある人たちですので、その答えを見つけに世界遺産『天龍寺』に向かいましょう。あわせて、天龍寺の裏山の小倉山にも登り、京都の町を西から眺めましょう。 |
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《ご案内》 天龍寺は、後嵯峨天皇の亀山離宮があったところに、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、1339(暦応2)年に夢窓国師を開山として創建した禅寺である。同寺造営のため元冦以来途絶えていた元との貿易を再開し、その利益を造営費用に充てた。これが歴史の教科書に出てくる「天龍寺船」である。天龍寺の建立は、幕府による海外貿易の大きな転換点になったわけだ。 天龍寺は、度重なる火災に見舞われた。特に文安の火災(1447年)と応仁の乱による被害(1468年)が大きく、復興には豊臣秀吉の寄進を待たなければならなかったという。また、蛤御門の変(1864年)では天龍寺が長州軍の陣営となり、薩摩軍が長州残党狩りのため寺に火をかけ、伽藍は焼失してしまった。しかし天龍寺は復興を続けた。1899(明治32)年に法堂・大方丈・庫裏完成、1924(大正13)年に小方丈(書院)再建、34(昭和9)年に多宝殿の再建などにより、ほぼ現在の寺観になった。 天龍寺の特徴を、世界遺産「古都京都の文化財」は次のように紹介している。「三門、仏殿、法堂、方丈を一直線上に並べ、方丈の裏に庭園を造った典型的な禅宗寺院の地割であり、方丈庭園は自然の地形を大きな築山に見立てて作られている。8度の兵火により主要伽藍は失われたが、夢窓疎石が作庭に携わった天龍寺庭園が残り、特別名勝に指定されている。滝組竜門瀑、石橋、岩島といった石組を立てたダイナミックでしかも繊細な趣の池庭であり、方丈からの眺めを重視した構成や石組の手法は室町時代以降発展する枯山水庭園に影響を与えている。」 天龍寺庭園は「曹源池庭園(そうげんちていえん)」と呼ばれ、その背後は嵐山公園亀山地区(通称「亀山公園」)である。亀山とは小倉山のこと。山のかたちが亀のかたちなので亀山と呼ばれる。小倉百人一首をまとめたとされる時雨亭はこの山の東麓であり、公園内には歌碑が多数ある。亀山公園から約1.5キロ北西に登ると頂上(標高296メートル)に至る。 小倉山山頂からは、京都盆地西側の嵯峨野や太秦、そして双ヶ岡がよく見える。大文字山から見える吉田山や御所など京都盆地東側の景色とは対照的だ。平安京北端の一条大路は、双ヶ岡と吉田山を結んだ線上に設けられたとする説があるが、地上から見る場合はこの2点だけでは線が定まらない。衛星写真を見ると小倉山、双ヶ岡、吉田山、大文字山が東西方向に直線状に並んでいて、小倉山と双ヶ岡を見通して線を引くと一条大路ができあがる。 小倉山と嵐山との間には山を裂くように桂川が流れる。保津峡だ。亀山公園の展望台に登ればその渓谷美を見渡すことができる。 桂川上流の北山山地は、京都府中央部から兵庫県東部にまたがる丹波高地の一部で、東は高野川に沿って南北に走る花折断層により比叡山地と区切られる。京都市南西部の桂川右岸側に広がる山地も丹波高地の一部である。京都盆地は東縁に花折断層帯(花折断層や桃山断層)、西縁に京都西山断層帯(樫原断層や西山断層)があり、それら活断層の活動によって形成された陥没盆地だ。小倉山の西と南を流れる桂川は、保津峡より上流ですでに土砂を堆積させているため谷口部には明瞭な扇状地は形成されていない。谷口部を出た渡月橋あたりからは緩やかな地形となり、蛇行しながら南に流れる。 山麓で百人一首をまとめたとされる小倉山だが、そこに登れば、京都の地形に思いを馳せ、平安京造営の様子が偲ばれる。 |
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